人生がすべて決まっている、
と言う話があります。
それを受け入れる人もいれば、
受け入れたくない人もいるでしょう。
個人の自由なので、
どちらでも構いません。
人生で起こることって100%決まっているのかな?
もし決まっているなら、安心してやりたいことに打ち込める。
決まっていないなら、何が起こるかワクワクできる。
…どっちにしても自分のワクワクすることに
自由に進んでいけるんじゃない!?#運命 #ワクワク pic.twitter.com/vbErnNicAH— ダイジョーブタ (@daijobuta) March 27, 2023
今回は、すべて決まっているを
受け入れている人向けの話です。
すべて決まっているモノは、
変えられない。何故、それを
体験する必要があったのか?
何故、その道を通ったのか?
何故何故か?
汝、なぜなぜかと、
問いかけることなかれ、
と言いますが敢えて、
問いかけてみましょう。
人生は、すべて決まっている。
それを受け入れているにしても、
何故と言う部分を疎かにしない。
キューピットはご先祖様!結婚相手も離婚も生まれる前に決まっている!?【親子セラピスト 長南華香さん】 https://t.co/czSkC4V70K @YouTubeより
結婚相手は、
生まれる前から決まっていた?
離婚する時期も決まっていた?— 毛🦀@思考の治療院 (@3b48For6hcCrT4J) February 2, 2024
小林正観さんの話の中で、
人生のシナリオは、有名です。
正観さんの教えは、
私も好きですが、あの人でさえ、
行き着いていない領域があったようです。
人生は、すべて決まっている。
これだけで、納得しないこと。
人生で起きる諸々の事。
それを体験する事が、
決まっていたのなら、
何故、体験する事になったのか?
自分は、何故、そのような、
行動を取ったのか?
何故、そのように思ったのか?
そこには、必ず、
意味や理由があるそうで、
何の意味もなく体験している、
と言う訳では、ないようです。
それを知るには、
とくに幼少期の事柄は、
重要なようです。親が毒親だ。
親がどうしようもない。
何故、そこへ生まれて来た?
私も幼少期の言葉も喋れない時期。
固有名詞などの単語を知らない時期に、
思考には、既にそれらの言葉があった。
何故、そのような環境で、
そのような人生を
歩む事になったのか?
何故、虐待するような、
親を選んで生まれて来たのか?
何故、不幸続きの人生なのか?
何故、波乱万丈な人生なのか?
何故、不平不満に思うのか?
何故、怒りが沸くのか?
何故、憎しみの感情が出るのか?
何故、そのように思うのか?
なぜなぜかと、
自分自身に問いかける。
もしかしたら、
これを、させない為に、
汝、なぜなぜかと、
問いかけることなかれ、
と伝えられているのかもしれない。
ノンデュアリティにしても、
起きるべき事が起きている。
なぜなぜか?と問いかけていない。
起きる事、体験する事には、意味がある。
何の意味もなく体験している訳ではない。
すべてが決まっているのなら、
変更は、出来ない。変えられない。
それを何故、体験したのだろうか?
今は、スピリチュアルでも、
カルマをあるとする話もあれば、
カルマをないとする話もありますが、
カルマがある方の話をすれば、
例えば、マイナス8000のカルマを
背負って生まれて来たなら、
そのカルマ軽減の為に、
このような親元で、
このような環境で、
人生の中では、こう言う事を
体験すると言う筋書きを
組み込んで来たかもしれない。
カルマがあるなら、
因果応報もあると言う事で、
私は、因果応報は、わりと、
来世に返って来る事の方が、
多いのではないか?と、
思っています。だから、
今世では、身に覚えのない事や、
理不尽な現象を体験している時は、
実は、カルマ解消の時ではないか?
と思うのですよね。今世で、
因果応報が返って来る時も、
晩年で体が弱りだしてからなどに、
返って来る事が多いような気がします。
だから、早くに因果応報が、
返って来る事は、実は、
運が良い事なのかもしれない。
人の振り見て我が振り直せで、
傍から見て、どのように、
悲惨に見える事も、
その人は、その因があるから、
体験しているのかもしれない。
私の身内の事で言えば、
自己愛性パーソナリティ障害が多い。
それぞれが自分が正しいと思い込み、
何かあれば、人のせいにする。
特に爺さんや叔父さんは、
それが強烈であった。
爺さんは、もう死んでますが、
彼等が、どのような悲惨な目に、
遭おうとも彼等を知る者は、
自業自得だと思う事でしょう。
そして、私も、そのような家系に、
生まれて来たのは、それなりの因が、
あったのかもしれません。
世の中で起きている、
色んな境遇。可哀そうに思える事や、
理不尽に思える事も、それぞれの人に、
その因があったのかもしれない。
記憶の埋蔵金
その記憶が自分の中にある。
自分の中に眠っている。
これは、記憶の
埋蔵金のようなもので、
そう簡単には、見つからない。
前世やカルマだと、
簡単に結論付けてしまうと、
中々、本当の所が分からなくなる。
そうだとしても、
ヒントは、今世の人生の中で、
人との出会いだったり、
会話の中にあるようです。
私の母は、宗教にのめり込み、
何故、家の中は、あまりにも、
ゴタゴタが多いのか?と、
霊能者の方に尋ねたら、
先祖が悪どい商売を
やっていたからだ、
と言われたそうです。
母は、本気にしてましたが、
私は、聞き流していました。
それから随分時が経ち、
まったく別の霊能者から、
同じ事を言われました。
何となくですが、因果や、
先祖がどうたらではなく、
私の前世がその悪どい商売を
やっていた人なのではないか?
と思いました。
私が生まれて間もなくしてから、
既に借金取りからの
鳴り止まない電話が日常。
家系内は、人格異常者だらけ。
暴力、暴言は、当たり前。
悪口、文句は、念仏のように聞かされる。
私の生まれ育った家は、
墓地を埋め立てた上にあって、
裏には、泥棒の家がありました。
今世で出会った人の関係性の中でも、
その悪どい商売をしていた人が、
私であったヒントのような事もありました。
ホ・オポノポノなどで、
記憶の浄化するのも良いとは、
思いますが、それだと、
記憶の埋蔵金は、発見できない。
それなりに役立つツールであると
思っていますが、あれは、海で言ったら、
表面のゴミ拾いは、出来るけど、
海底に沈んでいるゴミまでは、
拾えないモノだと思う。
でも、ある程度の潜在意識の
掃除には役立つモノだと思う。
過去世の記録と記憶が、
今世に繋がっているかもしれない。
でも、前世やカルマの前に、
まず、今世の事をよく観る。
だけども、幼少期で人生が、
はじまったばかりの段階で、
辛く苦しい環境に、
身を置かれると言うのは、
今世が理由では、ないですよね?
人生は、阿弥陀クジ
過去世の事は、
過去に精算されている。
カルマなどない。
前世は、関係ない。
これも近年のスピリチュアルでは、
よく言われていることです。
これも必ずしも間違いでは、
ないと思います。
じゃあ、先程の話と、
矛盾するではないか、
と思うかもしれませんが、
段階と言いますか、
仮に、まったく同じ人生を
歩む人がいたとしても、
捉え方までは、一緒に、
ならないかもしれないですよね?
因果も前世も関係ある段階。
因果も前世も関係ない段階。
因果応報が存在しなくても、
因果応報に思える事はある。
何かを体験するには、
それを体験する為の
因があったとも言える。
前世や因果やカルマが、
関係ある方の話をすれば、
例えば、悪事を働いて、
裁きを受けたからと言って、
あくまで、法律上のこの世的な
裁きを受けただけです。
さらに言えば、悪事を働いて、
この世的な裁きさえ受けずに、
やり過ごした人だっていたでしょう。
善悪は、ない。すべては、運命。
しかし、何処かでそれを解消したいと
願っていたのかもしれません。清算。
阿弥陀クジのように、
阿弥陀様の采配で、
今世は、その人生を選んだ。
阿弥陀様が抵抗ある方は、
自分自身で選んだと、
置き換えてください。
今のスピリチュアル業界は、
楽で安易で簡単なモノが、
流行りやすい傾向があるようですが、
釈迦が四諦八正道の教えを残したように、
そこまで簡単なモノは、何か違う、
と言う事も、あるような気がします。
『苦界』
⇒ https://t.co/K7zRlnBW8p #アメブロ @ameba_officialより— 毛🦀@思考の治療院 (@3b48For6hcCrT4J) April 11, 2023
↑shandaraniさんのブログには、
やっぱり、肝心なことが書かれてますね。