スピリチュアルな視点・毒親の元へ生まれた意味

今は、毒親ブームと言いますか、
ドラマや映画や漫画などでも、
毒親問題を取り上げたりする作品があって、
それなりに話題を呼ぶことがあります。

昔の時代であれば、
情報量も少なく、
毒親と言う事に、
気づかなかった要素もある。

今は、時代も変わり、
多くの人が気づきはじめた。

毒親と言うのは、
自覚がない精神病の病気。
異常者であります。

だけども、本人は、
正常だと思い込んでいる。

毒親は、思い通りにならないと、
不機嫌になる。怒る。それが普通。

家庭内では、あり得ない事の連続。

毒親育ちは、生まれ落ちた時から、
悲惨な環境で育つ事が多いですが、

何故、そのような所に、
生まれる事になったのか?

いくつかの説があります。

一つは、因果。

一つは、経験。

一つは、昇華。

一つは、記憶。

一つは、記録。

阿弥陀クジと言うモノがあります。
因果やカルマと言うモノがあれば、
それを辿って、それにふさわしい、
家庭、親元へ生まれる。

また、別の解釈では、
無差別に阿弥陀クジによって、
縁もゆかりもない所へ生まれる。

後者であれば、完全に、
運なのかもしれない。

しかし、運も実力のうちと、
言いますが、その運命になる、
運を持ち合わせていたかもしれない。

人の振り見て我が振り直せ、
と言う言葉があります。

人の振り見て、
我が振り、我が行いに気づけ。

自分が体験する事には、
それ相応の理由があるようです。

毒親は、子を苦しめますが、
自分が、何処かで人を苦しめていた、
因果関係があるのかもしれない。

毒親に限らず、
どうしようもないような、
人や事を見たり、関わる事が、
あったりします。

前世やカルマが関係しているなら、
自分も、どうしようもない事を
行っていたのかもしれない。
 
気づかなければ、
ならない何かがある。

もしも、死後の世界に、
天国も地獄も存在せず、
空想の世界であるとしたら、

この世が天国であり地獄である。

三つ子の魂百までと言いますが、

良い親元に生まれ、
良い環境で育てば、
そこは、天国のような所で、
そのようにして育った人もいる。

一方で毒親育ちは、
生まれた時から、
既に最悪のような親元や、
環境に身を置く事になる。
こちらは、地獄のような所。

死後の世界があろうがなかろうが、
この世に天国と地獄がある。

毒親育ちの日常は地獄絵図。

地獄に堕ちて来たとも言える。

憶測の話になりますが、
死後の世界が存在しない方が、
わりと、カルマとか、因果応報とか、
輪廻転生とかが分かりやすい気がします。

死後の世界があって、
地獄があるなら、
そこで清算されればいいと思いますが、
今世に持ち越している事があると思う。

死後の世界があって、
清算されているなら、
前世も関係ないでしょう。

毒親は、人を見下す、
バカにする。悪口、
文句が止まらない。
子供を粗末に扱う。

前世の自分が、
そうだったかもしれないし、
今世の自分に、その傾向が、
あると言う事かもしれない。

これは、誰もに共通では、
ないかもしれないので、
それぞれで気づく必要がある。

前世、自分が毒親だったのなら、
今世、自分が毒親育ちになるのは、
因果応報と言えます。

今世の毒親を見れば、
何かあれば、自分以外のせいにして、
自分に問題がないとする。

今世で本人が
反省する事がなかったら、

来世に持ち越す?

世の中には、色んな犯罪者もいます。
前世などでは、自分が、
そうであったかもしれない。

ヤクザやマフィア。
凶悪犯や詐欺師。
強姦や強盗。

親玉であったなら、
自分が何をせずとも、
結構な罪を背負っていると思う。

色んな犯罪行為があります。
悪の金儲けがあります。
人を騙したり陥れたりがあります。
人を苦しめたり悲しませたリがあります。

戦国時代や戦時中など、
人を殺めても英雄扱いされた、
時代もある。それは、本当に、
罪では、なかったのか?

毒親は、子を奴隷のように扱いますが、
自分も、人を奴隷のように扱っていたかもしれない。

それらの事を自分が行っていた、
結果として毒親の元へ生まれる、
輪廻であったなら仕方ないですよね?

直接的な悪事ではなくても、
毒親は、子供を精神的に、
追い込んでいる事がある。

そう言う事をやっていた結果として、
毒親の元へ生まれて来たかもしれない。

今世で、どうしようもない事を
繰り返した人が、どうしようもない
結末になれば、因果応報と思ったりします。

前世で、どうしようもない事を
繰り返していた人が、今世で、
どうしようもない結末になれば、
因果応報と思うのでは???

毒親育ちには、
そのような因果関係が、
もしかしたら、あるかもしれない。

しかし、カルマと言うのは、
やった事が返って来る、
と言うような短絡的なモノでは、
ないと言う話もありますし、

近年のスピリチュアル話では、
カルマなど存在していなかった、
と言うことも言われています。

カルマもなく、
前世も関係なかった。

だとしても、毒親家系と言うのは、
毒親の親は、毒親で、そのまた親も毒親でと、
ずーっと、似たり寄ったりの事を
繰り返している家系でもある。

毒親自身も悲惨な環境で、
育っている事が多い。

しかし、感覚が麻痺している所もあり、
悲惨が当たり前になっている所もある。

それを子供にも押し付ける。

それを何処かで終わらせない限り、
終わらない。また繰り返す。

気づいた人が終わらせる役目を
担っているかもしれない。

私の家系は、自己愛性パーソナリティ障害の家系でした。

爺さんも、叔父さんも、
嫌われ病として生きていました。

自分で問題を起こして、
いつも人のせいにしていました。

松岡圭祐さんの「催眠」と言う有名な本があります。

その本の中で緑色の猿に
催眠術をかけられた話が出てきます。

私の爺ちゃんは、猿のような人で、父や叔父に、
自己愛性パーソナリティ障害になる為の
催眠術をかけていたとも言えます。

毒親家系は、いわば、毒親になる為の催眠。
誰かが催眠を解かないとならない。

催眠術にかかっている人は、気づかない。

徳川家康が8歳ぐらいから、
19歳まで、人質として、
捕らえられていたそうですが、

毒親育ちは、親や祖父母などに、
人質にされているとも言えます。

そうでないと、養えなかった、
何かがあったかもしれない。

それは、プラスの要素もあると思う。

毒親育ちの人は、
幼少期の頃から、
親の機嫌取りをしたり、

細かい機微に気づいたり、
察することが上手くなったりする。

だけど、自己愛性パーソナリティ障害になると、
育ちの環境の中で感覚器官が、
破壊されているのか、気づけない人も多い。

良くも悪くも、毒親育ちの人は、
親を憎んだり、嘆くだけでなく、

何故、自分は、そこへ生まれる事に、
なったのか?それを自問自答する必要が、
もしかしたら、あるのかもしれません。

何故、それを体験する事になったか?
それは、不運だけでは、ないらしい。

何かに気づく必要があるようです。

毒親は、基本的に、変わりません。
逆に、自分の思考や感情も同じなら、
結局、また、同じなのだと思います。

どんな事も自分に、
必要だから体験する。

どんな事も自分に、
因があるから体験する因果。

しかし、毒親の元にいて、
自分も狂人になりそうなら、
逃げたり離れるのも時には、
必要だと思います。

不平不満や怒り、憎悪、
憎しみ、恨み、怨念、
これらが溜まり過ぎた結果、

本来であれば、被害者の人が、
加害者になってしまう事もある。

それはなくても、
自分の精神が狂う事もある。

自分を加害者にさせない為にも、

精神状態を狂わせない為にも、

離れる、逃げるが、必要な事もある。

毒親と内観。毒親に対して感謝は生じるのか?感謝したつもりになるだけなら、嫌いまくった方がいい?

元々、内観が有効なことは、
shandaraniさんのブログを
読んで知っていたのですが、

shandaraniさんが伝えている、
内観は、難易度が高いような、
気がしましたので、その他の
内観情報を調べてみました。

内観と言うことで、
いつもとは、違う角度から、
毒親問題と向き合う。

↑の動画の中で、

してもらう事ばかり、
愛される事ばかりを

求めていたと言われています。

言われてみれば、私もそうでした。
迷惑しかかけられていなかったと思っていた。

毒親は、不平不満ばかりを
口にしますが、それを聞く中で、
私も不平不満ばかりに思っていました。

毒親は、自分以外の人の事を
バカにする傾向がありますが、
私も毒親の事をバカにしていました。

無理矢理、感謝しろってわけではなくて、
毒親を通して、自分の中の毒を吐き出す。

何で嫌いなのか?

こうこうこうで、
こうだから嫌い。

それをさらに深堀して行く。

これも、内観。

毒親問題を語る時、
毒親の事ばかりに矛先が向きますが、
矢印の方向を親ではなく、自分に向ける。

毒をもって毒を制す、
と言う言葉がありますが、

その意味は、

解毒をするのに他の毒を用いることで、
悪人を滅ぼすのに他の悪人を使い、
難病を治すのに強力な薬を用いることをいう。

とあります。

毒親は、自分の中の毒を取り出す解毒。

生まれもって来た、
業と言えるモノかもしれません。

業が深かったのですね。
だから、深く観る必要がある。

内観とは、内を観ると書きます。
自分の内側を兎に角、観ること。

内観する時に、
ネガティブな思いや、
感情は、凄く大事らしい。

だから、毒親に苦しめられた、
数々の経験が必要だった。

それを元に自分の中を
深く深く見て行く。

問答。自問自答。

灼熱地獄に放り投げないと、
アク(悪)が取れなかった。

何で、そう思ったのか?
何で、そう感じたのか?
何で、そうじゃなきゃいけないと思った?

何で、それを許せなかったのか?
何で、それが嫌だったのか?
何で、それがいけない事だと思ったのか?

自分の中に毒蛇が、いっぱいいると思って、
それらを一匹ずつ取り出すようなイメージ。

自分が持っている思い込みに気づくこと。

ノートに書き出すのも有効かもしれません。

自分の中の感情。
何故、その感情が沸き出るのか?

例えば、イライラした出来事。
何故、イライラしたのか?

その思考を深堀して行く。

なんでだろう、なんでだろう、

と、自分に質問を繰り返す。

スピリチュアルでは、
外側には、何も無い、
と言うことが言われます。

この言葉だけが、
1人歩きしている部分は、
否めませんが、
自分の内側にあるモノが、
外側である現実に現れる。

自分の中にそれがあるから、
現れるし体験する事になる。

あるいは、自分でも気づいていない、
自分自身を見せられているとも言える。

かと言って、
親を許せとか、嫌うなとか、
感謝しろと言う話でもない。

嫌いなままでもいい。
許せなくてもいい。
感謝しなくてもいい。

それが目的では、ない。
結果、そうなることは、
あるかもしれませんが、
それが目的では、ない。

兎に角、自分の中を観る。

見ると、観るは、字が違う。

意味も違う。観る。

病院で行う手術には、
痛みが伴う。痛みを和らげる為に、
麻酔を打ったり、その後に痛み止めを
飲んだりします。

内観は、麻酔も痛み止めもなしに、
自分の中を観て行く事であるようです。

と言う事は、苦しみや、
痛みを伴わない内観は、
内観できていないと言える。

しかし、幸いにして、
毒親とのあれこれでは、
これらは、伴いやすい。

毒親が手術をする為の
医者だったとも言える。

そうであるなら、
毒親は、憎まれ役、嫌われ役を
承知の上だったかもしれない。

役者で言う所の役や芝居。

(現実レベルでは、
毒親自身も分かっていない。)

大根役者では、すぐにバレる。
だから、迫真の演技の役者。

毒親家系には、
史上最悪とも思える、
役者達が揃っている。

憎まれ役や恨まれ役なのですから、
それを大いに活用して自分の中を観る。

また、毒親以外の人も、
内観の対象相手になる。

この世では、お金があれば、
いい暮らしが出来る。だけど、
死後に持って行けない。

肉体を持って生きている期間は、
長生きしても100年程度です。

本来、人間として生まれた目的は、
お金を得る事が一番では、
ないような気がします。

釈迦が伝えたかった、この世は、苦界の本当の意味とは???

この世は、苦界。この世は、苦海。
四苦八苦。生老病死。因果応報。
釈迦は、何故、人は、苦しむのかを考えた。

そして、また、苦しみこそが、
重要だとの結論に辿り着いた。

人間の平均寿命が上がったとは、言え、
現代においても、多くの人は、100年も生きずに死んで行く。

寿命も人それぞれ違いますが、
この短い人生には、それなりに意味がある。

楽しいだけの人生では、苦しみが分からない。
逆も、また然りでは、ありますが、釈迦は、
楽しさよりも苦しさの方が重要だと説いていたと思う。

諸行無常の意味を調べると、こうあります。

この世の万物は常に変化して、ほんの
しばらくもとどまるものはないこと。
人生の無常をいう仏教の根本的な考え。
▽仏教語。「 諸行」は、
因縁によって生じた、この世の一切の事物。

因縁によって生じた、この世の一切の事物。
↑釈迦がもっとも、伝えたかったことは、
こちらの意味だったかもしれません。

解脱とは、恐らく、その苦しみから、
解き放たれた状態。柿の種からは、柿が成り、
桜の種からは、桜が成る。

自分の身に起きる事は、
すべて自分に種がある。

種蒔きと収穫。
体験と因果応報。

種は、土の中、深くにある。

人は、中々、この種に気づきずらいようです。

sahandaraniさんのブログ記事によりますと、
苦しみさえも、自分で創り出しているそうです。
苦しませる相手さえも自分の中にある種を炙り出す為。

これが、外側には、
何も無いと言われる所の
本当の意味かもしれません。

この世は、苦界。
言い変えれば、この身が苦界。

この人生、この身を使って、
苦しみの種を取り出す事が、
人間として生まれて来た目的。
人生の、もっとも大きな意味かもしれない。

しかし、それを果たしてしまえば、
人間として生まれて来ないかもしれず、
そんな事は、知らずに生きるのも、
またいいのかもしれないとも思う。

種を取り出す事は、強制では、ない。
だけど、苦しみは、強制的に、
体験するような事は、ある。

自分の身に起きる事は、
すべて自分に原因、種があるのですから、
その、すべての種を取り出せたら解脱なのかな?

種がなくなれば、それを体験することは、ない。
種があるから、そのような事を体験する。

何度も同じような事を体験するのは、
その事に気づきやすくする為かもしれない。

苦しみの種を抜くには、痛みを伴う。
しかし、苦しみを体験するだけでは、
種は、取り出せないそうです。

何故、それを体験したのか?
どのような種を自分が持っていたのか?
そこに気づくことが重要なようです。

ですが、そう簡単には、
気づけない故の難しさがある。

人は、苦しみたくないから、
苦しみを避けたり逃れようとします。

しかし、種が自分の中にある限り、
必ずそれを体験する事になる。
苦しみから逃れられない四苦八苦。

避けたり逃れたりしても、
先延ばしになるだけで、
いずれは、体験する事になる。

だから、人生は、苦行かもしれない。

種があるから、それを体験する。
種がなければ、それを体験しない。

苦しみの種をすべて取り出した解脱。

そこまで辿り着く人がほとんどいないから、
人は、輪廻転生を繰り返しているのかもしれない。

種があるから苦を体験する。
であるならば、一人一人が、
自分で自分の中の苦の種を滅すること。
これが、一番、世界平和へ
繋がる道なのかも?と思いました。

しかし、苦を滅する為に人間をやっているなら、
苦の種をすべて滅した時、人間を卒業するのかもしれない。

そこまでは、中々、辿り着けないから、
心配無用でしょうけど。すべての苦を滅したら、
そうなるのかもしれませんね。

人生は、決まっている?

釈迦は、誰かが、
人生は、すべて決まっている、
と言ったことに対して怒った、
との逸話もありますが、

釈迦も人生がすべて、
決まっていることは、
知っていたと思う。

2000年後の未来まで、
見えていた人ですから。

釈迦は、人生は、
すべて決まっている。
だけど、そんなことは、
知らなくてもいい。
考えなくてもいい。

すべての人が、
すべて決まっている人生を歩み、
そして、輪廻転生を繰り返す。
そんなことは、知らない方がいい。
それが釈迦の思いだったような気がします。

一人一人の人生が、
100%決まっているとして、
決まっていることを
決まった通りにやっているなら、
何故、生きているのだ?と言う話になるわけで、
それは、理屈で知ろうとする事が無意味。

色んな事件や事故があります。
被害者や加害者。遺族の悲しみがあります。
それを決まっているから仕方ないでは、
片付けられないでしょう。

だから、本当の意味で、
分かる人が分かればいい事だと思う。

スピリチュアルな視点から探る毒親の元に生まれて来た理由とは???

今回は、スピリチュアル的見解なので、
通常、毒親問題で言われている事は、
他の記事を参照して頂けたらと思います。

↑私のブログ記事では、
ないですが、
参考になりました。

スピリチュアル的な話も、
色々ありますが、
地球の一つの役割は、
地獄としての役割があった。

毒親と言うのは、鬼の役割。

まともな人間では、ない。
と言う所で、鬼や妖怪は、
実は、毒親などがモデル、
となっているのかもしれない。

鬼だから幼児に怒鳴りつけるし、
幼児虐待もする。刑務所でも、
その刑務所に行くには、それなりの刑、
それなりの理由があっての事。

毒親の家庭に生まれるのも、
それなりの理由があっての事。

健全でまともな親が、
たくさんいる中で、
何故、わざわざ、
最悪とも言える親元に、
生まれて来たのでしょうか?

私の親も重度の精神病と
思える人でした。爺ちゃんや、
叔父は、さらに異常者と
思える人でした。

兎に角、言葉は、通じない。
一方的な言葉ばかり。

暴力、怒鳴り声、
借金取りからの電話。

家の裏には泥棒が職業の人の家。

これが幼少期からの日常でした。  

そんな所に好き好んで、
生まれて来たとは思えない。

ここに生まれ落ちる、
何らかの理由があった。

もう一つは、
地獄でも鬼でもなく、
医者と患者のような関係。

一見、こちらが病気に

させられたと思いがちですが

毒親が医者。

重症の患者には、
荒治療が必要な事もある。

その親、その環境でないと、
ならなかった何らかの理由がある。

親や環境だけのせいに、
していれば、
一向に気づけない。

人の振り見て我が振り直せ、
と言いますが生まれる前に、
既に備わっていた自分の
癖のようなモノが、
あったのかもしれない。

もう一つは、
昔から言われているような、
カルマや因果応報と言うモノ。

子供時代に、毒親の元で諸々を
経験すると言う事は、前世や、
前前世が関係しているかもしれない。

毒親や環境は、
過去世の精算と言う
事もあるかもしれない。

しかし、過去世は、
一切関係ないとか、
カルマなど、はじめから、
存在しなかったと言う話も、
スピリチュアルでは、
よく言われています。

じゃあ、どっちなの?
と言う話ですが、
ないけど、ある。
あるけど、ない。私は、
そんな感じだと思っています。

最終結論としては、
ないと思いますが、
どうやら、過去世の癖や、
思いや、記憶と言うのは、
あるように思います。

私のかすかな記憶ですが、
生まれる前に低くて暗い
エネルギーのような所で、
エネルギー体のまま、
止まったまま、
長い年月が流れていた。

そして生まれた家庭環境や、
親などの事を思えば、
その記憶は、恐らく、
間違っていなかった。

その前の事までは、
思い出せない事が、
悔やまれますが、
ろくな者ではなく、
ろくな事をやっていなかったと思います。
 
因縁と言う言葉がありますが
解消したかった、ご縁のことも、
あるような気がします。

今世だけで世の中を見ても、
ニュースを見れば、
分かりやすいですか、
どうしようもない犯罪とか、
たくさんあります。

被害者の心や、
加害者の良心は、
捕まったから、
刑期を終えたからで、
解消するモノでもないと思う。

前世までのことは、
そこでチャラで完結。
と言う話もありますが、
本当にそうなのか?
と言った所で私は、
疑問を感じます。

いや、それが、
正しい可能性もありますが、
今世で悪の限りを尽くし、
人を欺き、騙し、と言う人生の人が、
そのすべてをチャラに出来るのか?

そもそも善悪などないから、
そのような役割だったのか?

一人一人の人生が、
決まっているなら、
その役割をまっとうしたに、
過ぎないのか?

本当の答えは、
私には、分からない。

分からないですが、
憶測として、
最悪な親であるほど、
最悪な環境であるほど、
気づかなければ、ならない、
何かがあったのかもしれない。

親が悪い。
環境が悪い。
言葉は通じない。
親の一向的な意見。
暴力、暴言、その他諸々。

それは、確かに、
そうだったかもしれない。

しかし、スピリチュアル的には、
その先にも思いを馳せる必要があると思う。

毒親育ちの誰もが、
壮絶な体験をしていると思う。

釈迦は、この世は、
苦界だと言ったそうですが、
苦しまなければ、ならない、
何らかの理由が、
あったような気もします。

天国と地獄の話では、
地獄に落ちた人達は、
皆、それなりの理由があった。

毒親家庭が地獄なら、
その地獄に生まれる、
理由があったかもしれない。

毒親育ちの人には、
もしかしたら、連鎖させない。
終わらせる。ストップさせる。
そのような役割もあるような気がします。

毒親問題。インターネットの普及で、
近年は、見たり聞いたりする機会が増えましたが、

毒親と言うのは、昔からいて、長い間、家系内で、
連鎖して来た家系もあちこちにあると思います。

何故、良親の元に生まれる人がいて、
何故、毒親の元に生まれる人がいるのか?

因果応報。それを体験する因があった。
その家、その家族に生まれる因や縁があった。

毒親以外のことでもそうだと思いますが、
因があるから、それらを体験している。

その因がなければ、体験していない。

毒親を責めるだけでは、終わらない。

因果があるから体験する。
と言うことは、それらは、
自分に原因があるから、
体験していたと言える。

例え、どのような理不尽に
思えることであったとしても。。。

とは、言ったものの、
現実問題として、

毒親育ちの人なら、
分かると思いますが、

犯罪行為こそ犯していなくても、
凶悪犯と変わらないような親もいる。

自分が耐え切れず逆上して、
加害者になる事もあり得る。

毒親家庭では、家庭内における、
事件や事故が起きやすい。

家庭内の出来事で、
表沙汰になっていないだけで、
家の中で犯罪行為が日常だったりもする。

幼児虐待なども、そうですよね。
家庭内に誰も通報する人がいなければ、
幼児では、通報出来ません。

離れた方が良い関係もある。
捨てた方が良い関係もある。

離れて音信普通は、
まだ、いいとして、捨てるは、
本当の最終手段にしておきたい所ですね。

しかし、私の父、叔父、祖父、
みんな、重症の精神異常者で、
言葉が通じない所が多かったので、

別に捨てても良かったかな?
と思ったこともありますし、
捨てる方が平和になることも分かります。

しかし、原因のない所に結果は、ない。
種を蒔かなければ、芽が出ない。
因がなければ、果がない。

それらは、相手ではなく自分にある。

何処にあるかが分かりずらいから、
中々、難易度が高いと思う。

幼児虐待など、今世に、
原因は、なさそうなので、
前世などに、その理由あった気がします。

運命は、決まっている?人生は、記憶と記録で出来ている?

人生がすべて決まっている、
と言う話があります。

それを受け入れる人もいれば、
受け入れたくない人もいるでしょう。

個人の自由なので、
どちらでも構いません。

今回は、すべて決まっているを
受け入れている人向けの話です。

すべて決まっているモノは、
変えられない。何故、それを
体験する必要があったのか?
何故、その道を通ったのか?

何故何故か?

汝、なぜなぜかと、
問いかけることなかれ、
と言いますが敢えて、
問いかけてみましょう。

人生は、すべて決まっている。

それを受け入れているにしても、
何故と言う部分を疎かにしない。

小林正観さんの話の中で、
人生のシナリオは、有名です。

正観さんの教えは、
私も好きですが、あの人でさえ、
行き着いていない領域があったようです。

人生は、すべて決まっている。
これだけで、納得しないこと。

人生で起きる諸々の事。

それを体験する事が、
決まっていたのなら、

何故、体験する事になったのか?

自分は、何故、そのような、
行動を取ったのか?
何故、そのように思ったのか?

そこには、必ず、
意味や理由があるそうで、
何の意味もなく体験している、
と言う訳では、ないようです。

それを知るには、
とくに幼少期の事柄は、
重要なようです。親が毒親だ。
親がどうしようもない。
何故、そこへ生まれて来た?

私も幼少期の言葉も喋れない時期。
固有名詞などの単語を知らない時期に、
思考には、既にそれらの言葉があった。

何故、そのような環境で、
そのような人生を
歩む事になったのか?

何故、虐待するような、
親を選んで生まれて来たのか?

何故、不幸続きの人生なのか?
何故、波乱万丈な人生なのか?
何故、不平不満に思うのか?
何故、怒りが沸くのか?
何故、憎しみの感情が出るのか?
何故、そのように思うのか?

なぜなぜかと、
自分自身に問いかける。

もしかしたら、
これを、させない為に、
汝、なぜなぜかと、
問いかけることなかれ、
と伝えられているのかもしれない。

ノンデュアリティにしても、
起きるべき事が起きている。

なぜなぜか?と問いかけていない。

起きる事、体験する事には、意味がある。
何の意味もなく体験している訳ではない。

すべてが決まっているのなら、
変更は、出来ない。変えられない。
それを何故、体験したのだろうか?

今は、スピリチュアルでも、 
カルマをあるとする話もあれば、 
カルマをないとする話もありますが、

カルマがある方の話をすれば、
例えば、マイナス8000のカルマを 
背負って生まれて来たなら、

そのカルマ軽減の為に、
このような親元で、
このような環境で、
人生の中では、こう言う事を
体験すると言う筋書きを
組み込んで来たかもしれない。

カルマがあるなら、 
因果応報もあると言う事で、
私は、因果応報は、わりと、
来世に返って来る事の方が、
多いのではないか?と、
思っています。だから、

今世では、身に覚えのない事や、
理不尽な現象を体験している時は、
実は、カルマ解消の時ではないか?

と思うのですよね。今世で、
因果応報が返って来る時も、
晩年で体が弱りだしてからなどに、
返って来る事が多いような気がします。

だから、早くに因果応報が、
返って来る事は、実は、 
運が良い事なのかもしれない。

人の振り見て我が振り直せで、
傍から見て、どのように、
悲惨に見える事も、
その人は、その因があるから、
体験しているのかもしれない。

私の身内の事で言えば、
自己愛性パーソナリティ障害が多い。

それぞれが自分が正しいと思い込み、
何かあれば、人のせいにする。

特に爺さんや叔父さんは、
それが強烈であった。

爺さんは、もう死んでますが、
彼等が、どのような悲惨な目に、 
遭おうとも彼等を知る者は、
自業自得だと思う事でしょう。

そして、私も、そのような家系に、
生まれて来たのは、それなりの因が、
あったのかもしれません。

世の中で起きている、
色んな境遇。可哀そうに思える事や、
理不尽に思える事も、それぞれの人に、
その因があったのかもしれない。

記憶の埋蔵金

その記憶が自分の中にある。
自分の中に眠っている。

これは、記憶の
埋蔵金のようなもので、
そう簡単には、見つからない。

前世やカルマだと、
簡単に結論付けてしまうと、
中々、本当の所が分からなくなる。

そうだとしても、
ヒントは、今世の人生の中で、
人との出会いだったり、
会話の中にあるようです。

私の母は、宗教にのめり込み、
何故、家の中は、あまりにも、
ゴタゴタが多いのか?と、 

霊能者の方に尋ねたら、
先祖が悪どい商売を
やっていたからだ、
と言われたそうです。

母は、本気にしてましたが、
私は、聞き流していました。

それから随分時が経ち、
まったく別の霊能者から、
同じ事を言われました。

何となくですが、因果や、
先祖がどうたらではなく、
私の前世がその悪どい商売を
やっていた人なのではないか?
と思いました。

私が生まれて間もなくしてから、
既に借金取りからの
鳴り止まない電話が日常。

家系内は、人格異常者だらけ。
暴力、暴言は、当たり前。
悪口、文句は、念仏のように聞かされる。

私の生まれ育った家は、
墓地を埋め立てた上にあって、
裏には、泥棒の家がありました。

今世で出会った人の関係性の中でも、
その悪どい商売をしていた人が、
私であったヒントのような事もありました。

ホ・オポノポノなどで、
記憶の浄化するのも良いとは、
思いますが、それだと、
記憶の埋蔵金は、発見できない。

それなりに役立つツールであると
思っていますが、あれは、海で言ったら、
表面のゴミ拾いは、出来るけど、
海底に沈んでいるゴミまでは、
拾えないモノだと思う。

でも、ある程度の潜在意識の
掃除には役立つモノだと思う。

過去世の記録と記憶が、
今世に繋がっているかもしれない。

でも、前世やカルマの前に、
まず、今世の事をよく観る。

だけども、幼少期で人生が、
はじまったばかりの段階で、
辛く苦しい環境に、
身を置かれると言うのは、
今世が理由では、ないですよね?

人生は、阿弥陀クジ

過去世の事は、
過去に精算されている。

カルマなどない。

前世は、関係ない。

これも近年のスピリチュアルでは、
よく言われていることです。

これも必ずしも間違いでは、
ないと思います。

じゃあ、先程の話と、
矛盾するではないか、
と思うかもしれませんが、

段階と言いますか、
仮に、まったく同じ人生を
歩む人がいたとしても、

捉え方までは、一緒に、
ならないかもしれないですよね?

因果も前世も関係ある段階。
因果も前世も関係ない段階。

因果応報が存在しなくても、
因果応報に思える事はある。

何かを体験するには、
それを体験する為の
因があったとも言える。

前世や因果やカルマが、
関係ある方の話をすれば、

例えば、悪事を働いて、
裁きを受けたからと言って、
あくまで、法律上のこの世的な
裁きを受けただけです。

さらに言えば、悪事を働いて、
この世的な裁きさえ受けずに、
やり過ごした人だっていたでしょう。

善悪は、ない。すべては、運命。

しかし、何処かでそれを解消したいと
願っていたのかもしれません。清算。

阿弥陀クジのように、
阿弥陀様の采配で、
今世は、その人生を選んだ。

阿弥陀様が抵抗ある方は、
自分自身で選んだと、
置き換えてください。

今のスピリチュアル業界は、
楽で安易で簡単なモノが、
流行りやすい傾向があるようですが、

釈迦が四諦八正道の教えを残したように、
そこまで簡単なモノは、何か違う、
と言う事も、あるような気がします。

↑shandaraniさんのブログには、

やっぱり、肝心なことが書かれてますね。

悪銭身に付かずは、本当か???

これは、楽してお金を稼ぐ事が、
悪いと言う話では、ないです。

楽をしていても、
三方良しの商売であれば、
悪銭では、ないですよね?

働くとは、傍を楽にすることでもある。

効率化の為に仕事を楽にすることも、
必要なこともあるでしょうし、
そうやって商売を大きくされた所もあります。

悪銭身に付かずの悪銭とは、

人を苦しめたり、騙したり、
と言った形で稼いだお金。

しかしながら、そのような形で稼いだ、
お金と言うのは、驚くほど早くに、
出て行く傾向があります。

大きく入っても実入りが少なかったり、
何故か、出費が重む事が多いようです。

また、四六時中、カッ、カッ、して、
怒ってばかりいる人はも、パッ、パッ、
と、お金が出て行く事が多くなります。

それは、悪い稼ぎ方をしていなくても、浪費癖がなくても、
本人の感情が勘定されて精算されてるみたいな感じです。

短気は、損気と言いますが、
金銭的にも損をしているのかもしれません。

お金のことをお足と言ったりもしますが、
人様から兎に角、嫌われている人の元からも、
お金は、すぐに出て行きます。入っても、
その人の元から走り出して出て行きます。

詐欺師、泥棒、高利貸し。
それらの職業に就いていた人で、
結局、手持ちのお金が0になった人も多い。

一時は、凄く羽振りが良くても、
そうなってしまう人は、多いです。

悪銭を溜め込んでいても、
何処かでお金自身が、
破綻しようとする気がします。

しかし、偏に悪人と言いましても、
心まで悪には、犯されていない人もいる。

人格的には、素晴らしい人だっている。
人徳がある人もいる。商売上の演技で、
いかにも悪人に見えるけど、
そうでは、ない人もいる。

運命的な話をすれば、それぞれが、
その道を通るようになっていた。

悪人の道も決して楽では、ない。

勿論、それでも、人を苦しめたり、
蹴落としたり、騙しているのであれば、
何処かで清算されるような事もあると思いますが、

本当に心や人格が素晴らしい人は、
悪事から足を洗った後、
表の世界で大活躍する人もいます。

悪銭は、身に付かずとも、
知識や経験は、なくならない。

その知識や経験を元に、
人助けをする人もいる。

しかしながら、
悪銭身に付かずの話をすれば、
大概は、多くの人に当てはまる。

稀に悪事によって滅茶苦茶に資産を築き、
裕福な生活を続ける人もいますけどね。

そこまで行く人は、何処かで、
人助けも結構している事もありますが、

悪銭身に付かずが必ずしも、
当てはまるとも言えない。

前世と今世が関係しているのであれば、
前世などの清算を今世に持ち越しているかもしれない。
今世で因果応報がなければ来世に持ち越しかもしれない。

私も生まれて間もなくして地獄のような感じでしたので、
やっぱり、前世が無関係とは、思えないのですよね。

前世の事など知らなくても、
今世が来世に持ち越されるなら、
悪事は、しないに越した事は、ない。

人に与えた、痛み、苦しみは、
いつか自分が受け取るのかもしれません。

般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)・仏見?

般舟三昧経は、
大乗仏教の一つと言われています。

簡単に、どんな内容なのか?
について触れたいと思う。

般舟三昧経は、十方諸仏の中でも、
主に阿弥陀について説かれている。

三昧と言うのは、
サンスクリット語の
サマディの訳で瞑想において、 
精神状態が深まり切った状態のこと。

口で念仏を唱え、
心で阿弥陀仏を思う。
それを常に行う三味の行。

この三昧において仏を見る。

精神統一によって仏の姿を目の前に、
見ることが出来るそうです。

一念岩をも通す、
と言いますが、

心を一つに集中し、
阿弥陀仏を念ずること。

阿弥陀仏の名を
唱えることによって、
阿弥陀仏が目前に出現する。

常行三昧を行じることで、
はっきりと阿弥陀仏を
見ることができる。

念仏によって見仏となる。
見仏は、身仏でもある。

その心がひたすら、
その対象に向かって、
汚れなき心となっていること。

目の前に見えるものは、
自分の心の投影でもある。

一切世界が心のみである。

仏が見えるから凄いとか、
見えないから駄目だ、 
と言うことでもない。

自分の心、観念が、 
映し出して見せている。

心が仏を作り、
心が仏となり、
心が仏を見る。

心が仏。心が身。

心は、仏を見るが、 
心は、心を見れぬ。
心に阿弥陀を観察する。

三界唯心。三界に属する、
一切は、ただ、心のみ。

と言うことで、いくら、
仏が見たいと願っても、
自身の心の状態も関係する。

三界唯心の真理があってこそ、
修行者は、仏を見ることが出来る。

そしてまた、苦しみさえも、 
自分の心の現れとも言える。

心がすべてを創り出している。幻影。

念仏をしている瞑想中に仏が現れる。

でも、危険な要素もあると言われています。

いわゆる憑依型の仏。
偽仏が現れる事もある。

しかし、実態のない姿。

空は、夢の如し。

目に見えるものすべてが幻想。

本物か偽物か?と問うことは、
無意味なことかもしれない。

自分の心が映しているのだから、
それが偽物だろうが本物だろうが、
本人にとっては、本物。

しかしながら、仏陀も未熟な修行者が、
より深い瞑想を求める事は、
危険な事だと言われていたそうです。

無反省に幻覚を操る事は、
崖から転落するような事。

増上慢。慢心。
これには、要注意。

今回、参考になったサイト様

https://www.yamazakibennei-museum.com/bennei-kawanami.html

https://blog.goo.ne.jp/schiffberg/e/0c8e9566ab0703bf942a56e050deeb1

http://www.yamadera.info/seiten/d/hanjusan_j.htm

「仏見」とはどういう意味ですか?

自分の外に仏を求めたり、自分が仏であると考えたりすること

般舟讃(はんじゅさん)

観経等明般舟三昧行道往生讃

阿弥陀仏の行法、
阿弥陀仏の徳、
浄土往生の道を示されたもの。

聴いてみて念仏和讃にとても似ていると思いました。

http://www.yamadera.info/seiten/d/hanjusan_j.htm

https://blog.goo.ne.jp/fuji1980/e/5769199490743a5c5532153a4825674f

和讃の意味は、仏や菩薩や、
祖師、先人の徳に対して、
和語を用いて褒め称えるとあります。

般舟讃は、般舟三味経を
褒め称える讃歌。

↑この本を読んでみました。

他の教えや修行を軽んじたり、
罵ってもいけない。
また自らに、縁のある
教えのみを讃歎するでもいけない。

こう言うことに、
興味関心があって、
活動している人の中には、
自分の所は良くて、他は、
ダメだとする人も多いですが、
自分の所も良くて、他の所には、
他の所の良さがある。善導大師は、
そのように伝えていたようです。

いくら素晴らしい話が出来ても、
その人の人間性。傲慢か謙虚か。
素直か頑固か。それによって、
その人の本質が分かる。

清浄とは、自分自身の
悪業や他人に悪業を
起こさせる自らの行為。
これらすべてを
断ち切ること。

我々は、はかり知れないほどの
昔から、この三界、六道に、
沈みに沈んでいる。

阿弥陀仏は、この世における、
人々の苦しみ、苦痛の声を聞いて、

自身の苦しみにおいて、
自らがなした自らの因によって、
受けた結果である。決して、
他人を怨んでは、ならない。

そう言われたそうです。

阿弥陀仏の名号を念じることは、
罪を軽くすることでもあり、
徳を積むことでもある。

煩悩も心によって、
作り出される。

煩悩を断ち切る利剣が、
南無阿弥陀仏の名号。

心想、相好、観相。

相好も、観相によって、
衆生の心想の中に起こり、

行者の念に随って、
真金色の仏が現れる。

真金色とは、
阿弥陀如来の
金色相のこと。

一心に仏を観想すれば、

念仏行者の前に、
その姿を見せる。

念仏は、悟りへの入口。

この念仏三昧の他に、
日常的な教えとして、

愚痴の行いを断ち切り、
自らの罪や過ちを恥じよう。
他人を欺いてもならない。

理論のみでも教理のみでも救われない。
自分に納得できなければ、
怨だけを残す事になる。

そのようなことも伝えられています。

仏教を語る仏教系ユーチューバー?菊谷隆太(きくたにりゅうた)さん。

ユーチューブで、
仏教に学ぶ幸福論チャンネルを
運営されている菊谷隆太さんと言う方がいます。

仏教に学ぶ幸福論チャンネル

私は、ユーチューブで仏教を語っても、
それほど見る人は、いないだろうな
と思っていたのですが、菊谷隆太さんの
ユーチューブチャンネルは、登録者数が
3万人以上いられるようです。

いくつかの動画を拝見させて頂きましたが、
簡潔に分かりやすい説明をされています。

仏教系の解説は、
素人が見たり聞いたりしても、
分かりずらいモノも多いのですが、
これは、素人にも分かりやすい。

菊谷隆太さん自身は、
かなり専門的な知識を持ちながらも、
伝える時は、難しくならないように
伝えられている。分野こそ違いますが、
伝え方や分かりやすさと言う点で、
中田敦彦さんのユーチューブにも
似ていると思いました。

歎異抄の謎

歎異抄は、親鸞さんの弟子の
唯円さんが親鸞さんが語られた教えを
書き残した書だと言われています。

この歎異抄は、今は、
普通に世に出回っていますが、

菊谷隆太さんの話によると、歎異抄は、
120年位前までは、世に出ることもなく、
封印されていたと言われます。

何故、封印されていたかと言えば、
蓮如上人と言う方が仏縁の浅い人には、
披見させては、ならない。

誰も彼もに見せたり読ませたりするのは、
色々と誤解を招いたり危険なことになる
恐れを察知して、封印させたそうです。

親鸞さんの教えを、
よく分かっている人だけが、
読めるようにと配慮したそうです。

今は、歎異抄は、誰もが手に出来、
誰もが読めるようになっていますが、
残念ながら蓮如上人が恐れていたように、
誤解を生んでいることも多いそうです。

悪人正機

仏教的視点では、
心・口・身・
この中で心を
もっとも重視する。

心の中で思ったこと。
これが、もっとも重要。

親鸞聖人は、心の中を徹底的に観れば、
どんな人も悪人だと言われたそうです。

すべての人間は、悪に汚れ穢れている。

心の隅々まで見れば、どんな人でも、
ビックリするほど、汚れている。

そのことに気づくこと。

心の中で思った、
ささいなことから大きなことまで。

相手の考えていることも、
自分の考えていることも、
すべて筒抜けで分かったら、

グチャグチャでドロドロの世になる。

表から見たら素晴らしい心の持ち主。
人格者と思える人もたくさんいる。

だけど、その人の心のすべてを見たら、
恐らくは、どんな人も悪人である。

そして、自分の心の中も汚れている。

親鸞聖人は、すべての人は、
悪人であると言われた。

善人と言うのは、
自分の心が綺麗で清らかだと、
うぬぼれている人。

心の中に塵一つ、
埃一つない人など存在しない。

正信偈

正信偈は、親鸞聖人が書かれたそうです。
菊谷隆太さんは、正信偈は、
お経ではないと言います。

親鸞聖人の教えのすべてが詰まっているのは、
教行信証ですが、この教行信証の中に、
正信偈があるそうです。

教行信証の内容を凝縮して、
短い詩にされたモノが、
正信偈になるそうです。

膨大なモノを凝縮し短くしたモノ。

正信偈の正信は、読んで字の如く、
正しい信心のこと。
正しい信心の詩。

信心が重要。

だけど、いつか崩れる信心では、
結果として自分が苦しむことになる。
だからこそ、正しい信心が大事。

他力

世間一般的に他力本願と言うと
悪い意味で捉えられていることが多いですが、
元々は、他力と言うのは、仏教の言葉であったそうです。

他力と言うのは、そもそも人の力では、ない。

他力と言うのは、如来の本願力。

如来の本願力とは、阿弥陀如来、阿弥陀仏の本願の力。

だから、人の力の及ばぬ所の力になると思います。

人知を超えた阿弥陀仏の力。

阿弥陀仏の力とは無明の闇を破る力。
だから、他力のことを光明とも言う。

そして、絶対の幸福にする力。

そのような他力によって救われる。

龍樹菩薩

1900年ほど前に
インドの南の方で仏教を伝えられた方に
龍樹(りゅうじゅ)さんと言う方がおられたそうです。

インドでは、小釈迦とも呼ばれているそうです。

お釈迦様は、ゴータマ・シッダールタ
小釈迦様は、ナーガルジュナ

ここでは、龍樹さんと呼ばせて頂きますが、
龍樹さんは、大乗無上法。阿弥陀仏の本願を
広く伝えられた方であるそうです。

スピリチュアル的解釈

私は、仏教よりは、
今流行のスピリチュアルの方が詳しいのですが、
仏教も、スピリチュアルも、最終的結論は、
一緒なのかもしれないとも思います。

それぞれの歩む過程や時期、
時間は、違うのですが、
川に流れる水が海に辿り着くように、
最終的には、一つの場所へ辿り着く。

例えば、チャネリングなどでも、
外側の宇宙と繋がっているように見えて、
実際は、自分の内面宇宙と繋がってチャネリングする。

仏教で言われている釈迦如来も阿弥陀仏も、
外側にいる、その存在達のように思えますが、
自分の心の奥底に存在している
釈迦如来、阿弥陀仏に繋がって、
その他力の力に救われる。

そんなような気がしました。

スピリチュアルな話では、
地球の次元上昇に伴い
霊界、幽界と言うモノは、
消滅しつつあると言います。

しかし、地獄、極楽は、自分の中にある。
死後、自分の良心が裁くことになると言います。

内側の反映が外側と言いますが、
外側に見える宇宙と同じモノが、
私達の体の中にも存在しているそうです。
外側の宇宙を大宇宙とするなら、
内側の宇宙を小宇宙として例えられています。

仏教で言われる所の覚者の人達は、
確かに凄いと思います。しかし、人は、誰もが皆、
そのような悟りの境地を得られると伝えていたと思う。

仏教でも、スピリチュアルでも、
伝え方の差こそあれ、覚者が
伝えていること、伝えたいことは、
最終的には、同じ一つの真実のような気がします。

だけども、あくまでも最終的。
道半ばには、真実ではない偽者。紛いもの。
これらが、たくさんあるのも、
見えない世界の危険な所だと思います。

劇的に運が良くなるお経 般若心経・延命十句観音経篇を読んでみました。

劇的に運が良くなるお経 般若心経・延命十句観音経篇 古本 アウトレット

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BLANCOL

この本の著者は、立花大敬さん。
名前だけは、知っていましたが、
この方の本を読むのは、はじめてです。

この本も、ある人から薦められて読んでみました。

私は、立花大敬さんのことを今まで、
お坊さんだと思っていましたが、
禅の修業を50年以上しながら、
高校の物理学の教師をされていた方だったのですね。

高校物理教師は、3年ほどで辞めたらしいですが、
その後、中高一貫の教師を長く続けられていたそうです。

お経は、下手でも、
つっかえてでも唱えると功徳を頂ける。
お坊さんでもない一般人に、
上手い下手は、関係がない。

お経は、ただ、繰り返し唱えればいい。

意味を知らないよりは、
意味を知って唱えた方がいいですが、
意味を知らなくても効果は、ある。

般若心経の意味を知るには、
この本だけでも十分だと思います。

むしろ、難しい解釈だと、
頭が混乱してしまうと思うので、
この本のようなシンプルなモノの方が
分かりやすいと思います。

逆に、お経やら仏教的なことを
結構、勉強されている方にとっては、
少し物足りなく感じる内容かもしれません。

私的には、これほど分かりやすく
解説された本は、
他にないだろうなと思いました。

大敬さんは、
できれば、坐禅か正座をして、
お経を唱えた方が良いと言います。

私は、知らなかったのですが、
般若心経と言う有名なお経は、
目標達成の為に効力がある
お経として知られているそうですね。

大敬さんの解釈では、
般若心経は、逆境を跳ね返し、
目標を達成する偉大なるお経。

般若心経の解説が書かれてあるのですが、
これが、また素晴らしい解説だと思いました。

何より分かりやすいし、量子論や、
スピリチュアルな話とも共通する部分が多い。

スピリチュアルな話では、
結構、有名になった話に、
自分の現実は、360度、
自分の周波数で映し出している映像だ。

この世は、幻想世界だ。

この世には、私一人しか存在していない。
(自作自演の世界)

と言う話がありますが、
これは、随分前から、般若心経で、
伝えていたことだったのですね。

五感で感じ、
心で映し出す。

心の周波数が
自分の現実を
創り出し映し出している。

外側には、何も無い。

あるように見えている、この世界。— 思考の治療院 (@3b48For6hcCrT4J) December 23, 2020

そして、大敬さんは、空海さんの著書である、
「般若心経秘鍵」を読まれたこともあるそうで、
空海さんが、般若心経を、どう捉えていたか?
と言うことについても、少し触れられています。

それを大敬さんなりに、
解釈されたことだと思うので、
空海さんが思っていたことと多少の違いは、
あるのかもしれませんが、それでも、
かなり素晴らしい解説だと思いました。

細かいことは、
本を読んで頂ければ分かりますが、
簡潔に説明すると、

私達の心は、グチャグチャ、ドロドロの
ゴミ屋敷状態になっている事も多い。

それが現実に反映している。

似たような現実が、
繰り返し現れるのは、
心に、そのような癖があるから。

心を綺麗にして、
無にする方法が、
お経を繰り返し唱えること。

心を無にする近道は、
お経を繰り返し唱えること。

完全なる無にならなくてもいい。
無に近づけるだけでいい。

無に近くなった心に、
目標や願望を刻むと、
それに向かって進んで行く。

お経そのモノの波動は、高い。
しかし、唱える者の波動は、
それより低い場合が多い。

だから、繰り返し唱えることで、
お経の本来持っている波動に近づいて行く。

最初は、中々、お経の波動と共鳴せず、
重くて濁った響きであるそうです。

しかし、粘り強く続けていると
重い心が、軽い心になり、
やがて、お経の波動の響きと
一致するようになるそうです。

今日明日に結果が出るモノでは、ない。
まずは、継続は、力なりと言うことなのでしょう。

結局、シンプルに、お経とは、
波動を高めるモノであったようです。

般若心経の解説を読み終えて、
改めて凄いなと思いました。

今、スピリチュアルで語られている、
ほぼ、すべてのことが、この短い
お経の中に集約されている。

延命十句観音経

こちらも有名なお経です。

この本を読む前の数日前に、
家の中を整理していたら、
昔、願成寺と言うお寺でもらった、
「延命十句観音経のすすめ」と言う
小冊子が出てきました。

著者は、梶田正明さん。

お寺の住職でしょうか?

それは、さておき、内容は、良かったですね。

この小冊子を読んだ後に、
先程の本の続きを読むことで、
理解も深まったような気がします。

一念三千と言う言葉があるように、
一つの願いを叶える為に唱える回数は、
三千回とも言われているそうです。

そんな時に、この短いお経は、役立つのでしょうね。

そもそも、仏具の数珠は、お経の数を
数える為に用いられていたモノでもあったそうです。

おわり

現代人は、私も含め、
お経離れと言いますか、
日常的にお経を唱える人は、
少なくなって来ているように思います。

お坊さんであっても、義務で唱えているだけの人も
多くなったような気もします。しかし、意味もなく、
今日まで伝えられるはずがないわけで、お経の功徳を
実感されて来た人も、世の中には、多くいるのでしょう。

この本は、今一度、お経の凄さを
世に伝える為に現れた本だと思いました。

ちなみに、この本には、坐禅をするには、
右足首を左足の太ももの上に乗せ、
左足首は右足の太ももの上に乗せると
書いてありますが、これは、結跏趺坐と言う
座り方で、誰でも簡単に出来るモノでは、ないらしい。

本の中では、いかにも簡単そうに書いてあったので、
誰でも出来るモノだと思って私も何度かチャレンジ
してみましたが、どうしても出来ない。

何故、出来ないんだ?と悪戦苦闘していましたが、
ネットで少し調べてみたら、初心者は、
出来なくて当たり前のことなのだそうです。
それを知って、一安心しました。

しかし、坐禅の姿勢は、
骨盤の上に背骨がまっすぐ立つので、
アンテナとして見事な役割を果たす。
理に適った座り方であるようです。

天照大御神のエネルギー??十言の神咒(とことのかじり)を読んでみました。

この本も、このブログの
読者様から教えて頂きました。

十言神呪(とことのかじり)/石黒豊信

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ネットオフ ヤフー店

十言とは、十の言葉。

 ア・マ・テ・ラ・ス・オ・ホ・ミ・カ・ミィ~
(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)

最後は、ミィ~と伸ばすようですね。

十言の神咒とは、十の神歌のことであるそうです。

そして、10回繰り返して唱えるといいらしい。
(30分ぐらい唱えると良いと言う説もある。)

一つ一つの言霊の中に神が宿っている。
一つ一つの言霊の中に神の歌が込められている。

十言の神咒の咒の字は、
呪の旧字体のようですが、
咒う(のろう)、咒い(まじない)、
咒う(まじなう)などの意味があるそうです。

十言の神咒の咒は、神の咒い(まじない)

悪いモノを祓う咒(しゅ)でもある。

そう言えば、般若心経にも
呪が付く言葉が多く使われていますよね。

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦

呪いと言う文字は、ネガティブな認識で
捉えてしまう事も多いですが、
本来は、そのようなネガティブな意味合いでは、
なかったのかもしれないですね。

丸山修寛先生の解説

本を読む前に丸山先生のユーチューブを見てみました。

クスリ絵で有名な丸山修寛先生は、
立体カバラと言う商品を製作されていたようですが、
それと、十言の神咒がリンクすることに気づかされた。

それも何かに導かれるようにして導かれ、
十言の神咒の本の中に求めていた答えが書かれてあって、
随分と驚いたと話されていました。

難しい説明は、何だか難しくて、よく分かりませんでしたが、
内面宇宙が外面宇宙。外側にあるモノは、内側にもある。
そのような原理として働いている。

十言の神咒の平面図と、
生命の樹の平面図が一致したそうです。

一霊四魂

荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)
幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)

私達は、神の分魂でもある。

中心に、直魂(なおい)と呼ばれる魂があって、
それが、一霊と呼ばれるモノ。

そこから、荒魂、和魂、幸魂、奇魂へと、
それぞれに繋がっている。

ですが、四魂には、過去世の
カルマなども溜まっているそうです。

だからこその、十言の神咒。

フタフタカムユケ

フタフタカムユケと言う言葉。
祓い言葉で、この言霊の効果は、
凄いと言われていました。

私なりの解釈では、
フタフタカムユケは、
幽体や霊体の周りに、
くっつけている埃や汚れや穢れを
取り除く言霊だと思いました。

丸山先生は、フタフタカムユケは、
カタカムナウタヒの
ミスマルの珠の蓋を取る役目
と言うようなことを言われていました。

一霊四魂の中の直魂(なおい)に、
ミスマルの珠がある。

一霊四魂の所で四魂には、
カルマなどが溜まっていると書きましたが、
フタフタカムユケは、それらを取り除き、
業因縁が抜けて行く。業因縁がぬけて行くと、
一霊四魂の一霊である直魂に繋がるそうです。

読書感想

丸山先生の解説を見てから、
この本を読みはじめたので、
正直、はじめの方から、
丸山先生の話より、
難しく感じる部分がありました。

だから、十言の神咒を、
より深く知りたい方でなければ、
丸山先生の説明を
聞くだけでも十分かもしれません。

この本の著者は、
石黒豊信さんと言う方ですが、
十言の神咒を授かったのは、
門田博治さんと言う方であったようです。

門田先生は、十言の神咒については、
多くを語らず、21世紀になれば、
分かるというようなことを
言われていたそうです。

一番最初の図では、
「あまてらすおほみかみ」の音の響きを
神霊界、幽界、現象界の三つに分けられ、
ぞれぞれの意味が書かれてありました。

最後にミィと音を伸ばすのは、
一番最初のアに帰り循環する為。

肉体の中に霊的なモノが存在し、
さらに、その奥には、神の性、
仏の性が存在している。

私達には、神や仏と同じ
エネルギーが体の奥にある。

人間が、この世に誕生する意味。
その一つは、業因縁の消去。

人間は、業因縁に動かされ、
生きている。だけど肉体の中に、
本当の自分が存在している。

人間には、元々、十言の神咒の
正しい組立てが備わっている。

しかし、人間によって、
その組立ては、違うようです。

人間の進化の過程は、
人間界である現象界を卒業し、
幽界を卒業し、神霊界へ昇り、
さらに上津彼方へ昇ることとあります。

肉体と言う壁を
取り除くことによって、
己の本質が現れる。

人間の体は、小宇宙で、
外側の宇宙と同じモノが、
私達の体の内側にもある。

十言の神咒も、
外界を示す組立てと、
内界を示す組立てが対応していて、
それが一霊四魂に影響を与えている。

丸山先生の解説に、
フタフタカムユケは、
ミスマルの珠の蓋を開けるとありましたが、
この本を読むと、その蓋は、簡単には、
開かないと書かれてあります。

この蓋が開くことをタマヒラキと言うそうです。

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