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歎異抄は、親鸞さんの弟子の
唯円さんが親鸞さんが語られた教えを
書き残した書だと言われています。
この歎異抄は、今は、
普通に世に出回っていますが、
菊谷隆太さんの話によると、歎異抄は、
120年位前までは、世に出ることもなく、
封印されていたと言われます。
何故、封印されていたかと言えば、
蓮如上人と言う方が仏縁の浅い人には、
披見させては、ならない。
誰も彼もに見せたり読ませたりするのは、
色々と誤解を招いたり危険なことになる
恐れを察知して、封印させたそうです。
親鸞さんの教えを、
よく分かっている人だけが、
読めるようにと配慮したそうです。
今は、歎異抄は、誰もが手に出来、
誰もが読めるようになっていますが、
残念ながら蓮如上人が恐れていたように、
誤解を生んでいることも多いそうです。
仏教的視点では、
心・口・身・
この中で心を
もっとも重視する。
心の中で思ったこと。
これが、もっとも重要。
親鸞聖人は、心の中を徹底的に観れば、
どんな人も悪人だと言われたそうです。
すべての人間は、悪に汚れ穢れている。
心の隅々まで見れば、どんな人でも、
ビックリするほど、汚れている。
そのことに気づくこと。
心の中で思った、
ささいなことから大きなことまで。
相手の考えていることも、
自分の考えていることも、
すべて筒抜けで分かったら、
グチャグチャでドロドロの世になる。
表から見たら素晴らしい心の持ち主。
人格者と思える人もたくさんいる。
だけど、その人の心のすべてを見たら、
恐らくは、どんな人も悪人である。
そして、自分の心の中も汚れている。
親鸞聖人は、すべての人は、
悪人であると言われた。
善人と言うのは、
自分の心が綺麗で清らかだと、
うぬぼれている人。
心の中に塵一つ、
埃一つない人など存在しない。
正信偈は、親鸞聖人が書かれたそうです。
菊谷隆太さんは、正信偈は、
お経ではないと言います。
、
親鸞聖人の教えのすべてが詰まっているのは、
教行信証ですが、この教行信証の中に、
正信偈があるそうです。
教行信証の内容を凝縮して、
短い詩にされたモノが、
正信偈になるそうです。
膨大なモノを凝縮し短くしたモノ。
正信偈の正信は、読んで字の如く、
正しい信心のこと。
正しい信心の詩。
信心が重要。
だけど、いつか崩れる信心では、
結果として自分が苦しむことになる。
だからこそ、正しい信心が大事。
世間一般的に他力本願と言うと
悪い意味で捉えられていることが多いですが、
元々は、他力と言うのは、仏教の言葉であったそうです。
他力と言うのは、そもそも人の力では、ない。
他力と言うのは、如来の本願力。
如来の本願力とは、阿弥陀如来、阿弥陀仏の本願の力。
だから、人の力の及ばぬ所の力になると思います。
人知を超えた阿弥陀仏の力。
阿弥陀仏の力とは無明の闇を破る力。
だから、他力のことを光明とも言う。
そして、絶対の幸福にする力。
そのような他力によって救われる。
1900年ほど前に
インドの南の方で仏教を伝えられた方に
龍樹(りゅうじゅ)さんと言う方がおられたそうです。
インドでは、小釈迦とも呼ばれているそうです。
お釈迦様は、ゴータマ・シッダールタ
小釈迦様は、ナーガルジュナ
ここでは、龍樹さんと呼ばせて頂きますが、
龍樹さんは、大乗無上法。阿弥陀仏の本願を
広く伝えられた方であるそうです。
私は、仏教よりは、
今流行のスピリチュアルの方が詳しいのですが、
仏教も、スピリチュアルも、最終的結論は、
一緒なのかもしれないとも思います。
それぞれの歩む過程や時期、
時間は、違うのですが、
川に流れる水が海に辿り着くように、
最終的には、一つの場所へ辿り着く。
例えば、チャネリングなどでも、
外側の宇宙と繋がっているように見えて、
実際は、自分の内面宇宙と繋がってチャネリングする。
仏教で言われている釈迦如来も阿弥陀仏も、
外側にいる、その存在達のように思えますが、
自分の心の奥底に存在している
釈迦如来、阿弥陀仏に繋がって、
その他力の力に救われる。
そんなような気がしました。
スピリチュアルな話では、
地球の次元上昇に伴い
霊界、幽界と言うモノは、
消滅しつつあると言います。
しかし、地獄、極楽は、自分の中にある。
死後、自分の良心が裁くことになると言います。
内側の反映が外側と言いますが、
外側に見える宇宙と同じモノが、
私達の体の中にも存在しているそうです。
外側の宇宙を大宇宙とするなら、
内側の宇宙を小宇宙として例えられています。
仏教で言われる所の覚者の人達は、
確かに凄いと思います。しかし、人は、誰もが皆、
そのような悟りの境地を得られると伝えていたと思う。
仏教でも、スピリチュアルでも、
伝え方の差こそあれ、覚者が
伝えていること、伝えたいことは、
最終的には、同じ一つの真実のような気がします。
だけども、あくまでも最終的。
道半ばには、真実ではない偽者。紛いもの。
これらが、たくさんあるのも、
見えない世界の危険な所だと思います。