簡単に、どんな内容なのか?
について触れたいと思う。
般舟三昧経は、十方諸仏の中でも、
主に阿弥陀について説かれている。
三昧と言うのは、
サンスクリット語の
サマディの訳で瞑想において、
精神状態が深まり切った状態のこと。
口で念仏を唱え、
心で阿弥陀仏を思う。
それを常に行う三味の行。
この三昧において仏を見る。
精神統一によって仏の姿を目の前に、
見ることが出来るそうです。
一念岩をも通す、
と言いますが、
心を一つに集中し、
阿弥陀仏を念ずること。
阿弥陀仏の名を
唱えることによって、
阿弥陀仏が目前に出現する。
常行三昧を行じることで、
はっきりと阿弥陀仏を
見ることができる。
念仏によって見仏となる。
見仏は、身仏でもある。
その心がひたすら、
その対象に向かって、
汚れなき心となっていること。
目の前に見えるものは、
自分の心の投影でもある。
一切世界が心のみである。
仏が見えるから凄いとか、
見えないから駄目だ、
と言うことでもない。
自分の心、観念が、
映し出して見せている。
心が仏を作り、
心が仏となり、
心が仏を見る。
心が仏。心が身。
心は、仏を見るが、
心は、心を見れぬ。
心に阿弥陀を観察する。
三界唯心。三界に属する、
一切は、ただ、心のみ。
と言うことで、いくら、
仏が見たいと願っても、
自身の心の状態も関係する。
三界唯心の真理があってこそ、
修行者は、仏を見ることが出来る。
そしてまた、苦しみさえも、
自分の心の現れとも言える。
心がすべてを創り出している。幻影。
今日のブラタモリで紹介された「常行三昧」。これは『般舟三昧経』という経典に基づく修行です。常に阿弥陀仏の名を称え、阿弥陀仏の姿をまざまざと思念する修行。天台智顗の『魔訶止観』に出る「歩歩声声念念、唯だ阿弥陀仏に在り」との記述が常行三昧にあたります。身体、言語、意識全てが阿弥陀仏に
— 龍谷ミュージアム元館長のつぶやき (@tirisawa) September 28, 2019
仏教の悟りに至るプロセスとその結果について、狙って体験を獲得したいのであれば『般舟三昧経』「行品」が面白い。
— 天神九十五 (@tenjin95) August 29, 2022
つまり、意図的に分別に基づく対比の事項を消していって、その先に「三昧」が現れる、という話である。でも、この「三昧」は、無分別に至った体験の表現でしかない。 #仏教独り言
a77.
— 法然上人御法語Bot (@enmyoubouzenkou) July 31, 2020
『般舟三昧経』の中で〈私の極楽世界に往生しようと思う者は、常に私の名号を称えて、怠ってはならない。このようにして、私の浄土に往生することが出来る。〉と、阿弥陀仏が人びとを救おうとする広大な誓願について自らおっしゃられています。
南無阿弥陀仏
般舟三昧経
— だいやめ@世界解決篇(更新終了) (@daiyamedesu) July 22, 2017
中国天台宗の開祖である智顗(538~597年)はその著『摩訶止観(まかしかん)』のなかで三昧を常坐・常行・半行半坐・非行非坐の四種に分けている。そのうちの常行三昧が般舟三昧にあたるのであるが、これを説明している。
優婆夷、この三昧を聞きて学ばむと欲せむ者は、……自ら仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事ふることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祀ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ。
— 浄土真宗の聖教bot (@shinshushougyou) July 14, 2022
(☆『般舟三昧経』四輩品)
【常行三昧】じょうぎょうざんまい 〘仏〙天台宗の摩訶止観(まかしかん)に説く四種三昧の一。般舟三昧経(はんじゆさんまいきよう)に基づき,90日間,道場内で阿弥陀仏を念じて仏像の周囲を歩き回る。それによって諸仏が堂内に立ち並ぶのを見ることができるという。平安時… #daijirin
— 藤田一弘@タターガタ・ガルバ (@haruto136) May 10, 2014
@maropafu 般舟三昧経です。三昧の中で阿弥陀仏に会えないなら夢で逢ったらいいじゃない。みたいな見仏体験だったはずです
— にしな (@247low) July 4, 2011
比叡山に伝わる常行念仏三昧は、そのオリジナルの『般舟三昧経』に基づく念仏ではなく、慈覚大師円仁が中国五台山で学んだ五会念仏の系統である。その美しい韻律を帯びた念仏がその後の日本浄土教に与えた影響は計り知れないが、その円仁が摩多羅神を常行堂の守り神として持ち込んだと言うのも興味深い
— 根本利巳 (@tonchi_jin) April 15, 2020
『般舟三昧経』曰く三昧を極めると星の数と同じくらいの仏が修行者の目の前に現れるらしい。都心部を軽く越える人口(仏口?)密度になることが予想されるので、場所を考えて修行してほしいですね。マジで
— にしな (@247low) October 7, 2011
念仏をしている瞑想中に仏が現れる。
でも、危険な要素もあると言われています。
いわゆる憑依型の仏。
偽仏が現れる事もある。
しかし、実態のない姿。
空は、夢の如し。
目に見えるものすべてが幻想。
本物か偽物か?と問うことは、
無意味なことかもしれない。
自分の心が映しているのだから、
それが偽物だろうが本物だろうが、
本人にとっては、本物。
しかしながら、仏陀も未熟な修行者が、
より深い瞑想を求める事は、
危険な事だと言われていたそうです。
無反省に幻覚を操る事は、
崖から転落するような事。
増上慢。慢心。
これには、要注意。
今回、参考になったサイト様
https://www.yamazakibennei-museum.com/bennei-kawanami.html
https://blog.goo.ne.jp/schiffberg/e/0c8e9566ab0703bf942a56e050deeb1
http://www.yamadera.info/seiten/d/hanjusan_j.htm
「仏見」とはどういう意味ですか?
自分の外に仏を求めたり、自分が仏であると考えたりすること
般舟讃(はんじゅさん)
観経等明般舟三昧行道往生讃
阿弥陀仏の行法、
阿弥陀仏の徳、
浄土往生の道を示されたもの。
聴いてみて念仏和讃にとても似ていると思いました。
http://www.yamadera.info/seiten/d/hanjusan_j.htm
https://blog.goo.ne.jp/fuji1980/e/5769199490743a5c5532153a4825674f
和讃の意味は、仏や菩薩や、
祖師、先人の徳に対して、
和語を用いて褒め称えるとあります。
般舟讃は、般舟三味経を
褒め称える讃歌。
↑この本を読んでみました。
他の教えや修行を軽んじたり、
罵ってもいけない。
また自らに、縁のある
教えのみを讃歎するでもいけない。
こう言うことに、
興味関心があって、
活動している人の中には、
自分の所は良くて、他は、
ダメだとする人も多いですが、
自分の所も良くて、他の所には、
他の所の良さがある。善導大師は、
そのように伝えていたようです。
いくら素晴らしい話が出来ても、
その人の人間性。傲慢か謙虚か。
素直か頑固か。それによって、
その人の本質が分かる。
清浄とは、自分自身の
悪業や他人に悪業を
起こさせる自らの行為。
これらすべてを
断ち切ること。
我々は、はかり知れないほどの
昔から、この三界、六道に、
沈みに沈んでいる。
阿弥陀仏は、この世における、
人々の苦しみ、苦痛の声を聞いて、
自身の苦しみにおいて、
自らがなした自らの因によって、
受けた結果である。決して、
他人を怨んでは、ならない。
そう言われたそうです。
阿弥陀仏の名号を念じることは、
罪を軽くすることでもあり、
徳を積むことでもある。
煩悩も心によって、
作り出される。
煩悩を断ち切る利剣が、
南無阿弥陀仏の名号。
心想、相好、観相。
相好も、観相によって、
衆生の心想の中に起こり、
行者の念に随って、
真金色の仏が現れる。
真金色とは、
阿弥陀如来の
金色相のこと。
一心に仏を観想すれば、
念仏行者の前に、
その姿を見せる。
念仏は、悟りへの入口。
この念仏三昧の他に、
日常的な教えとして、
愚痴の行いを断ち切り、
自らの罪や過ちを恥じよう。
他人を欺いてもならない。
理論のみでも教理のみでも救われない。
自分に納得できなければ、
怨だけを残す事になる。
そのようなことも伝えられています。