悪銭身に付かずは、本当か???

これは、楽してお金を稼ぐ事が、
悪いと言う話では、ないです。

楽をしていても、
三方良しの商売であれば、
悪銭では、ないですよね?

働くとは、傍を楽にすることでもある。

効率化の為に仕事を楽にすることも、
必要なこともあるでしょうし、
そうやって商売を大きくされた所もあります。

悪銭身に付かずの悪銭とは、

人を苦しめたり、騙したり、
と言った形で稼いだお金。

しかしながら、そのような形で稼いだ、
お金と言うのは、驚くほど早くに、
出て行く傾向があります。

大きく入っても実入りが少なかったり、
何故か、出費が重む事が多いようです。

また、四六時中、カッ、カッ、して、
怒ってばかりいる人はも、パッ、パッ、
と、お金が出て行く事が多くなります。

それは、悪い稼ぎ方をしていなくても、浪費癖がなくても、
本人の感情が勘定されて精算されてるみたいな感じです。

短気は、損気と言いますが、
金銭的にも損をしているのかもしれません。

お金のことをお足と言ったりもしますが、
人様から兎に角、嫌われている人の元からも、
お金は、すぐに出て行きます。入っても、
その人の元から走り出して出て行きます。

詐欺師、泥棒、高利貸し。
それらの職業に就いていた人で、
結局、手持ちのお金が0になった人も多い。

一時は、凄く羽振りが良くても、
そうなってしまう人は、多いです。

悪銭を溜め込んでいても、
何処かでお金自身が、
破綻しようとする気がします。

しかし、偏に悪人と言いましても、
心まで悪には、犯されていない人もいる。

人格的には、素晴らしい人だっている。
人徳がある人もいる。商売上の演技で、
いかにも悪人に見えるけど、
そうでは、ない人もいる。

運命的な話をすれば、それぞれが、
その道を通るようになっていた。

悪人の道も決して楽では、ない。

勿論、それでも、人を苦しめたり、
蹴落としたり、騙しているのであれば、
何処かで清算されるような事もあると思いますが、

本当に心や人格が素晴らしい人は、
悪事から足を洗った後、
表の世界で大活躍する人もいます。

悪銭は、身に付かずとも、
知識や経験は、なくならない。

その知識や経験を元に、
人助けをする人もいる。

しかしながら、
悪銭身に付かずの話をすれば、
大概は、多くの人に当てはまる。

稀に悪事によって滅茶苦茶に資産を築き、
裕福な生活を続ける人もいますけどね。

そこまで行く人は、何処かで、
人助けも結構している事もありますが、

悪銭身に付かずが必ずしも、
当てはまるとも言えない。

前世と今世が関係しているのであれば、
前世などの清算を今世に持ち越しているかもしれない。
今世で因果応報がなければ来世に持ち越しかもしれない。

私も生まれて間もなくして地獄のような感じでしたので、
やっぱり、前世が無関係とは、思えないのですよね。

前世の事など知らなくても、
今世が来世に持ち越されるなら、
悪事は、しないに越した事は、ない。

人に与えた、痛み、苦しみは、
いつか自分が受け取るのかもしれません。

般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)

般舟三昧経は、
大乗仏教の一つと言われています。

簡単に、どんな内容なのか?
について触れたいと思う。

般舟三昧経は、十方諸仏の中でも、
主に阿弥陀について説かれている。

三昧と言うのは、
サンスクリット語の
サマディの訳で瞑想において、 
精神状態が深まり切った状態のこと。

口で念仏を唱え、
心で阿弥陀仏を思う。
それを常に行う三味の行。

この三昧において仏を見る。

精神統一によって仏の姿を目の前に、
見ることが出来るそうです。

一念岩をも通す、
と言いますが、

心を一つに集中し、
阿弥陀仏を念ずること。

阿弥陀仏の名を
唱えることによって、
阿弥陀仏が目前に出現する。

常行三昧を行じることで、
はっきりと阿弥陀仏を
見ることができる。

念仏によって見仏となる。
見仏は、身仏でもある。

その心がひたすら、
その対象に向かって、
汚れなき心となっていること。

目の前に見えるものは、
自分の心の投影でもある。

一切世界が心のみである。

仏が見えるから凄いとか、
見えないから駄目だ、 
と言うことでもない。

自分の心、観念が、 
映し出して見せている。

心が仏を作り、
心が仏となり、
心が仏を見る。

心が仏。心が身。

心は、仏を見るが、 
心は、心を見れぬ。
心に阿弥陀を観察する。

三界唯心。三界に属する、
一切は、ただ、心のみ。

と言うことで、いくら、
仏が見たいと願っても、
自身の心の状態も関係する。

三界唯心の真理があってこそ、
修行者は、仏を見ることが出来る。

そしてまた、苦しみさえも、 
自分の心の現れとも言える。

心がすべてを創り出している。幻影。

念仏をしている瞑想中に仏が現れる。

でも、危険な要素もあると言われています。

いわゆる憑依型の仏。
偽仏が現れる事もある。

しかし、実態のない姿。

空は、夢の如し。

目に見えるものすべてが幻想。

本物か偽物か?と問うことは、
無意味なことかもしれない。

自分の心が映しているのだから、
それが偽物だろうが本物だろうが、
本人にとっては、本物。

しかしながら、仏陀も未熟な修行者が、
より深い瞑想を求める事は、
危険な事だと言われていたそうです。

無反省に幻覚を操る事は、
崖から転落するような事。

増上慢。慢心。
これには、要注意。

今回、参考になったサイト様

https://www.yamazakibennei-museum.com/bennei-kawanami.htmlhttps://blog.goo.ne.jp/schiffberg/e/0c8e9566ab0703bf942a56e050deeb1

http://www.yamadera.info/seiten/d/hanjusan_j.htm

般舟讃(はんじゅさん)

観経等明般舟三昧行道往生讃

阿弥陀仏の行法、
阿弥陀仏の徳、
浄土往生の道を示されたもの。

聴いてみて念仏和讃にとても似ていると思いました。

http://www.yamadera.info/seiten/d/hanjusan_j.htm

https://blog.goo.ne.jp/fuji1980/e/5769199490743a5c5532153a4825674f

和讃の意味は、仏や菩薩や、
祖師、先人の徳に対して、
和語を用いて褒め称えるとあります。

般舟讃は、般舟三味経を
褒め称える讃歌。

↑この本を読んでみました。

他の教えや修行を軽んじたり、
罵ってもいけない。
また自らに、縁のある
教えのみを讃歎するでもいけない。

こう言うことに、
興味関心があって、
活動している人の中には、
自分の所は良くて、他は、
ダメだとする人も多いですが、
自分の所も良くて、他の所には、
他の所の良さがある。善導大師は、
そのように伝えていたようです。

いくら素晴らしい話が出来ても、
その人の人間性。傲慢か謙虚か。
素直か頑固か。それによって、
その人の本質が分かる。

清浄とは、自分自身の
悪業や他人に悪業を
起こさせる自らの行為。
これらすべてを
断ち切ること。

我々は、はかり知れないほどの
昔から、この三界、六道に、
沈みに沈んでいる。

阿弥陀仏は、この世における、
人々の苦しみ、苦痛の声を聞いて、

自身の苦しみにおいて、
自らがなした自らの因によって、
受けた結果である。決して、
他人を怨んでは、ならない。

そう言われたそうです。

阿弥陀仏の名号を念じることは、
罪を軽くすることでもあり、
徳を積むことでもある。

煩悩も心によって、
作り出される。

煩悩を断ち切る利剣が、
南無阿弥陀仏の名号。

心想、相好、観相。

相好も、観相によって、
衆生の心想の中に起こり、

行者の念に随って、
真金色の仏が現れる。

真金色とは、
阿弥陀如来の
金色相のこと。

一心に仏を観想すれば、

念仏行者の前に、
その姿を見せる。

念仏は、悟りへの入口。

この念仏三昧の他に、
日常的な教えとして、

愚痴の行いを断ち切り、
自らの罪や過ちを恥じよう。
他人を欺いてもならない。

理論のみでも教理のみでも救われない。
自分に納得できなければ、
怨だけを残す事になる。

そのようなことも伝えられています。

仏教を語る仏教系ユーチューバー?菊谷隆太(きくたにりゅうた)さん。

ユーチューブで、
仏教に学ぶ幸福論チャンネルを
運営されている菊谷隆太さんと言う方がいます。

仏教に学ぶ幸福論チャンネル

私は、ユーチューブで仏教を語っても、
それほど見る人は、いないだろうな
と思っていたのですが、菊谷隆太さんの
ユーチューブチャンネルは、登録者数が
3万人以上いられるようです。

いくつかの動画を拝見させて頂きましたが、
簡潔に分かりやすい説明をされています。

仏教系の解説は、
素人が見たり聞いたりしても、
分かりずらいモノも多いのですが、
これは、素人にも分かりやすい。

菊谷隆太さん自身は、
かなり専門的な知識を持ちながらも、
伝える時は、難しくならないように
伝えられている。分野こそ違いますが、
伝え方や分かりやすさと言う点で、
中田敦彦さんのユーチューブにも
似ていると思いました。

歎異抄の謎

歎異抄は、親鸞さんの弟子の
唯円さんが親鸞さんが語られた教えを
書き残した書だと言われています。

この歎異抄は、今は、
普通に世に出回っていますが、

菊谷隆太さんの話によると、歎異抄は、
120年位前までは、世に出ることもなく、
封印されていたと言われます。

何故、封印されていたかと言えば、
蓮如上人と言う方が仏縁の浅い人には、
披見させては、ならない。

誰も彼もに見せたり読ませたりするのは、
色々と誤解を招いたり危険なことになる
恐れを察知して、封印させたそうです。

親鸞さんの教えを、
よく分かっている人だけが、
読めるようにと配慮したそうです。

今は、歎異抄は、誰もが手に出来、
誰もが読めるようになっていますが、
残念ながら蓮如上人が恐れていたように、
誤解を生んでいることも多いそうです。

悪人正機

仏教的視点では、
心・口・身・
この中で心を
もっとも重視する。

心の中で思ったこと。
これが、もっとも重要。

親鸞聖人は、心の中を徹底的に観れば、
どんな人も悪人だと言われたそうです。

すべての人間は、悪に汚れ穢れている。

心の隅々まで見れば、どんな人でも、
ビックリするほど、汚れている。

そのことに気づくこと。

心の中で思った、
ささいなことから大きなことまで。

相手の考えていることも、
自分の考えていることも、
すべて筒抜けで分かったら、

グチャグチャでドロドロの世になる。

表から見たら素晴らしい心の持ち主。
人格者と思える人もたくさんいる。

だけど、その人の心のすべてを見たら、
恐らくは、どんな人も悪人である。

そして、自分の心の中も汚れている。

親鸞聖人は、すべての人は、
悪人であると言われた。

善人と言うのは、
自分の心が綺麗で清らかだと、
うぬぼれている人。

心の中に塵一つ、
埃一つない人など存在しない。

正信偈

正信偈は、親鸞聖人が書かれたそうです。
菊谷隆太さんは、正信偈は、
お経ではないと言います。

親鸞聖人の教えのすべてが詰まっているのは、
教行信証ですが、この教行信証の中に、
正信偈があるそうです。

教行信証の内容を凝縮して、
短い詩にされたモノが、
正信偈になるそうです。

膨大なモノを凝縮し短くしたモノ。

正信偈の正信は、読んで字の如く、
正しい信心のこと。
正しい信心の詩。

信心が重要。

だけど、いつか崩れる信心では、
結果として自分が苦しむことになる。
だからこそ、正しい信心が大事。

他力

世間一般的に他力本願と言うと
悪い意味で捉えられていることが多いですが、
元々は、他力と言うのは、仏教の言葉であったそうです。

他力と言うのは、そもそも人の力では、ない。

他力と言うのは、如来の本願力。

如来の本願力とは、阿弥陀如来、阿弥陀仏の本願の力。

だから、人の力の及ばぬ所の力になると思います。

人知を超えた阿弥陀仏の力。

阿弥陀仏の力とは無明の闇を破る力。
だから、他力のことを光明とも言う。

そして、絶対の幸福にする力。

そのような他力によって救われる。

龍樹菩薩

1900年ほど前に
インドの南の方で仏教を伝えられた方に
龍樹(りゅうじゅ)さんと言う方がおられたそうです。

インドでは、小釈迦とも呼ばれているそうです。

お釈迦様は、ゴータマ・シッダールタ
小釈迦様は、ナーガルジュナ

ここでは、龍樹さんと呼ばせて頂きますが、
龍樹さんは、大乗無上法。阿弥陀仏の本願を
広く伝えられた方であるそうです。

スピリチュアル的解釈

私は、仏教よりは、
今流行のスピリチュアルの方が詳しいのですが、
仏教も、スピリチュアルも、最終的結論は、
一緒なのかもしれないとも思います。

それぞれの歩む過程や時期、
時間は、違うのですが、
川に流れる水が海に辿り着くように、
最終的には、一つの場所へ辿り着く。

例えば、チャネリングなどでも、
外側の宇宙と繋がっているように見えて、
実際は、自分の内面宇宙と繋がってチャネリングする。

仏教で言われている釈迦如来も阿弥陀仏も、
外側にいる、その存在達のように思えますが、
自分の心の奥底に存在している
釈迦如来、阿弥陀仏に繋がって、
その他力の力に救われる。

そんなような気がしました。

スピリチュアルな話では、
地球の次元上昇に伴い
霊界、幽界と言うモノは、
消滅しつつあると言います。

しかし、地獄、極楽は、自分の中にある。
死後、自分の良心が裁くことになると言います。

内側の反映が外側と言いますが、
外側に見える宇宙と同じモノが、
私達の体の中にも存在しているそうです。
外側の宇宙を大宇宙とするなら、
内側の宇宙を小宇宙として例えられています。

仏教で言われる所の覚者の人達は、
確かに凄いと思います。しかし、人は、誰もが皆、
そのような悟りの境地を得られると伝えていたと思う。

仏教でも、スピリチュアルでも、
伝え方の差こそあれ、覚者が
伝えていること、伝えたいことは、
最終的には、同じ一つの真実のような気がします。

だけども、あくまでも最終的。
道半ばには、真実ではない偽者。紛いもの。
これらが、たくさんあるのも、
見えない世界の危険な所だと思います。

劇的に運が良くなるお経 般若心経・延命十句観音経篇を読んでみました。

劇的に運が良くなるお経 般若心経・延命十句観音経篇 古本 アウトレット

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BLANCOL

この本の著者は、立花大敬さん。
名前だけは、知っていましたが、
この方の本を読むのは、はじめてです。

この本も、ある人から薦められて読んでみました。

私は、立花大敬さんのことを今まで、
お坊さんだと思っていましたが、
禅の修業を50年以上しながら、
高校の物理学の教師をされていた方だったのですね。

高校物理教師は、3年ほどで辞めたらしいですが、
その後、中高一貫の教師を長く続けられていたそうです。

お経は、下手でも、
つっかえてでも唱えると功徳を頂ける。
お坊さんでもない一般人に、
上手い下手は、関係がない。

お経は、ただ、繰り返し唱えればいい。

意味を知らないよりは、
意味を知って唱えた方がいいですが、
意味を知らなくても効果は、ある。

般若心経の意味を知るには、
この本だけでも十分だと思います。

むしろ、難しい解釈だと、
頭が混乱してしまうと思うので、
この本のようなシンプルなモノの方が
分かりやすいと思います。

逆に、お経やら仏教的なことを
結構、勉強されている方にとっては、
少し物足りなく感じる内容かもしれません。

私的には、これほど分かりやすく
解説された本は、
他にないだろうなと思いました。

大敬さんは、
できれば、坐禅か正座をして、
お経を唱えた方が良いと言います。

私は、知らなかったのですが、
般若心経と言う有名なお経は、
目標達成の為に効力がある
お経として知られているそうですね。

大敬さんの解釈では、
般若心経は、逆境を跳ね返し、
目標を達成する偉大なるお経。

般若心経の解説が書かれてあるのですが、
これが、また素晴らしい解説だと思いました。

何より分かりやすいし、量子論や、
スピリチュアルな話とも共通する部分が多い。

スピリチュアルな話では、
結構、有名になった話に、
自分の現実は、360度、
自分の周波数で映し出している映像だ。

この世は、幻想世界だ。

この世には、私一人しか存在していない。
(自作自演の世界)

と言う話がありますが、
これは、随分前から、般若心経で、
伝えていたことだったのですね。

五感で感じ、
心で映し出す。

心の周波数が
自分の現実を
創り出し映し出している。

外側には、何も無い。

あるように見えている、この世界。— 思考の治療院 (@3b48For6hcCrT4J) December 23, 2020

そして、大敬さんは、空海さんの著書である、
「般若心経秘鍵」を読まれたこともあるそうで、
空海さんが、般若心経を、どう捉えていたか?
と言うことについても、少し触れられています。

それを大敬さんなりに、
解釈されたことだと思うので、
空海さんが思っていたことと多少の違いは、
あるのかもしれませんが、それでも、
かなり素晴らしい解説だと思いました。

細かいことは、
本を読んで頂ければ分かりますが、
簡潔に説明すると、

私達の心は、グチャグチャ、ドロドロの
ゴミ屋敷状態になっている事も多い。

それが現実に反映している。

似たような現実が、
繰り返し現れるのは、
心に、そのような癖があるから。

心を綺麗にして、
無にする方法が、
お経を繰り返し唱えること。

心を無にする近道は、
お経を繰り返し唱えること。

完全なる無にならなくてもいい。
無に近づけるだけでいい。

無に近くなった心に、
目標や願望を刻むと、
それに向かって進んで行く。

お経そのモノの波動は、高い。
しかし、唱える者の波動は、
それより低い場合が多い。

だから、繰り返し唱えることで、
お経の本来持っている波動に近づいて行く。

最初は、中々、お経の波動と共鳴せず、
重くて濁った響きであるそうです。

しかし、粘り強く続けていると
重い心が、軽い心になり、
やがて、お経の波動の響きと
一致するようになるそうです。

今日明日に結果が出るモノでは、ない。
まずは、継続は、力なりと言うことなのでしょう。

結局、シンプルに、お経とは、
波動を高めるモノであったようです。

般若心経の解説を読み終えて、
改めて凄いなと思いました。

今、スピリチュアルで語られている、
ほぼ、すべてのことが、この短い
お経の中に集約されている。

延命十句観音経

こちらも有名なお経です。

この本を読む前の数日前に、
家の中を整理していたら、
昔、願成寺と言うお寺でもらった、
「延命十句観音経のすすめ」と言う
小冊子が出てきました。

著者は、梶田正明さん。

お寺の住職でしょうか?

それは、さておき、内容は、良かったですね。

この小冊子を読んだ後に、
先程の本の続きを読むことで、
理解も深まったような気がします。

一念三千と言う言葉があるように、
一つの願いを叶える為に唱える回数は、
三千回とも言われているそうです。

そんな時に、この短いお経は、役立つのでしょうね。

そもそも、仏具の数珠は、お経の数を
数える為に用いられていたモノでもあったそうです。

おわり

現代人は、私も含め、
お経離れと言いますか、
日常的にお経を唱える人は、
少なくなって来ているように思います。

お坊さんであっても、義務で唱えているだけの人も
多くなったような気もします。しかし、意味もなく、
今日まで伝えられるはずがないわけで、お経の功徳を
実感されて来た人も、世の中には、多くいるのでしょう。

この本は、今一度、お経の凄さを
世に伝える為に現れた本だと思いました。

ちなみに、この本には、坐禅をするには、
右足首を左足の太ももの上に乗せ、
左足首は右足の太ももの上に乗せると
書いてありますが、これは、結跏趺坐と言う
座り方で、誰でも簡単に出来るモノでは、ないらしい。

本の中では、いかにも簡単そうに書いてあったので、
誰でも出来るモノだと思って私も何度かチャレンジ
してみましたが、どうしても出来ない。

何故、出来ないんだ?と悪戦苦闘していましたが、
ネットで少し調べてみたら、初心者は、
出来なくて当たり前のことなのだそうです。
それを知って、一安心しました。

しかし、坐禅の姿勢は、
骨盤の上に背骨がまっすぐ立つので、
アンテナとして見事な役割を果たす。
理に適った座り方であるようです。

天照大御神のエネルギー??十言の神咒(とことのかじり)を読んでみました。

この本も、このブログの
読者様から教えて頂きました。

十言神呪(とことのかじり)/石黒豊信

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ネットオフ ヤフー店

十言とは、十の言葉。

 ア・マ・テ・ラ・ス・オ・ホ・ミ・カ・ミィ~
(1・2・3・4・5・6・7・8・9・10)

最後は、ミィ~と伸ばすようですね。

十言の神咒とは、十の神歌のことであるそうです。

そして、10回繰り返して唱えるといいらしい。
(30分ぐらい唱えると良いと言う説もある。)

一つ一つの言霊の中に神が宿っている。
一つ一つの言霊の中に神の歌が込められている。

十言の神咒の咒の字は、
呪の旧字体のようですが、
咒う(のろう)、咒い(まじない)、
咒う(まじなう)などの意味があるそうです。

十言の神咒の咒は、神の咒い(まじない)

悪いモノを祓う咒(しゅ)でもある。

そう言えば、般若心経にも
呪が付く言葉が多く使われていますよね。

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦

呪いと言う文字は、ネガティブな認識で
捉えてしまう事も多いですが、
本来は、そのようなネガティブな意味合いでは、
なかったのかもしれないですね。

丸山修寛先生の解説

本を読む前に丸山先生のユーチューブを見てみました。

クスリ絵で有名な丸山修寛先生は、
立体カバラと言う商品を製作されていたようですが、
それと、十言の神咒がリンクすることに気づかされた。

それも何かに導かれるようにして導かれ、
十言の神咒の本の中に求めていた答えが書かれてあって、
随分と驚いたと話されていました。

難しい説明は、何だか難しくて、よく分かりませんでしたが、
内面宇宙が外面宇宙。外側にあるモノは、内側にもある。
そのような原理として働いている。

十言の神咒の平面図と、
生命の樹の平面図が一致したそうです。

一霊四魂

荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)
幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)

私達は、神の分魂でもある。

中心に、直魂(なおい)と呼ばれる魂があって、
それが、一霊と呼ばれるモノ。

そこから、荒魂、和魂、幸魂、奇魂へと、
それぞれに繋がっている。

ですが、四魂には、過去世の
カルマなども溜まっているそうです。

だからこその、十言の神咒。

フタフタカムユケ

フタフタカムユケと言う言葉。
祓い言葉で、この言霊の効果は、
凄いと言われていました。

私なりの解釈では、
フタフタカムユケは、
幽体や霊体の周りに、
くっつけている埃や汚れや穢れを
取り除く言霊だと思いました。

丸山先生は、フタフタカムユケは、
カタカムナウタヒの
ミスマルの珠の蓋を取る役目
と言うようなことを言われていました。

一霊四魂の中の直魂(なおい)に、
ミスマルの珠がある。

一霊四魂の所で四魂には、
カルマなどが溜まっていると書きましたが、
フタフタカムユケは、それらを取り除き、
業因縁が抜けて行く。業因縁がぬけて行くと、
一霊四魂の一霊である直魂に繋がるそうです。

読書感想

丸山先生の解説を見てから、
この本を読みはじめたので、
正直、はじめの方から、
丸山先生の話より、
難しく感じる部分がありました。

だから、十言の神咒を、
より深く知りたい方でなければ、
丸山先生の説明を
聞くだけでも十分かもしれません。

この本の著者は、
石黒豊信さんと言う方ですが、
十言の神咒を授かったのは、
門田博治さんと言う方であったようです。

門田先生は、十言の神咒については、
多くを語らず、21世紀になれば、
分かるというようなことを
言われていたそうです。

一番最初の図では、
「あまてらすおほみかみ」の音の響きを
神霊界、幽界、現象界の三つに分けられ、
ぞれぞれの意味が書かれてありました。

最後にミィと音を伸ばすのは、
一番最初のアに帰り循環する為。

肉体の中に霊的なモノが存在し、
さらに、その奥には、神の性、
仏の性が存在している。

私達には、神や仏と同じ
エネルギーが体の奥にある。

人間が、この世に誕生する意味。
その一つは、業因縁の消去。

人間は、業因縁に動かされ、
生きている。だけど肉体の中に、
本当の自分が存在している。

人間には、元々、十言の神咒の
正しい組立てが備わっている。

しかし、人間によって、
その組立ては、違うようです。

人間の進化の過程は、
人間界である現象界を卒業し、
幽界を卒業し、神霊界へ昇り、
さらに上津彼方へ昇ることとあります。

肉体と言う壁を
取り除くことによって、
己の本質が現れる。

人間の体は、小宇宙で、
外側の宇宙と同じモノが、
私達の体の内側にもある。

十言の神咒も、
外界を示す組立てと、
内界を示す組立てが対応していて、
それが一霊四魂に影響を与えている。

丸山先生の解説に、
フタフタカムユケは、
ミスマルの珠の蓋を開けるとありましたが、
この本を読むと、その蓋は、簡単には、
開かないと書かれてあります。

この蓋が開くことをタマヒラキと言うそうです。

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