スピリチュアル 仏教 日記

目醒めと悟りは、違うモノ?同じモノ?

更新日:

今、スピリチュアルで言われている
目醒めと言われているモノと
釈迦などが説いた悟りは、同じモノなのでしょうか?

私は、個人的には、目醒めと覚醒は、
違うモノだと思っていますが、
目醒めと悟りは、同じモノだと思っています。

あくまで私が個人的に
思っている事なので違うのかもしれませんが
悟りと目醒めを同じモノとした前提の記事になります。

仏教には、他力本願と言う言葉があります。
これは、自分の力ではなく仏や他の者の力によって
自分は、生かされていると言う意味でもあるようです。

帰命した者が念仏を唱えると
救われると言う教えもあります。

一念帰命の行

だけど、念仏は、
誰かが、あなたに代わって
唱えてくれるわけではないです。
唱えるのは、あくまで自分です。

スピリチュアルで今、人気の
統合ワークなども誰かが、
あなたの代わりに
やってくれるわけではないです。
それをやるのは、自分です。

目醒めたい。悟りたい。
それをやるのは、自分であって、
誰かが、そうしてくれるわけでなない。

それに至るまでの導きは、
色々あるかもしれませんが、
他力本願は、他人まかせとは、違います。

どの道にしても単純で簡単そうなモノほど、
奥が深いと言うか本質に辿り着くまでは、
山登りと一緒で、それなりに険しい道だと思います。

別に険しい道が厳しい道だと
言っているわけではなくて、
それは、楽しい道かもしれないのですが、
登山と一緒で、すぐには、
山頂には、辿り着けません。

素晴らしい教えに出会った。
素晴らしい人に出会った。
それは、登山する山が決まって
一緒に登る人が決まったような事で
登って行くペースも人それぞれ違うでしょう。

継続は、力なりと言う言葉もありますが、
何かに出会ったからと言って、
今日明日に目醒めたり悟ったりするわけではない。

誰かが悟らせてくれる。
誰かが目醒めさせてくれる。

残念ながら、それは、ないと思います。

誰かや何かは、それに導いてくれる事はあっても、
誰かや何かの力で、目醒めたり悟ったりは、しない。

釈迦の弟子で悟ったと言われた人達も、
釈迦が悟りの力を与えて悟らせたわけでは、ない。
釈迦の傍にいて、ご自身で悟りを得られたと思います。

そして何が何でも目醒めなければならない。
悟らなければならないと力んでいる間も、
それは、訪れないような気がします。

私達がイメージする悟った人も目醒めた人も、
力んだ人では、ないですよね?

肩の力が抜けてリラックスした
感じの人では、ないでしょうか?

悟りに至るまでの道のりを解脱と
表現される事もありますが色々と
脱ぎ捨てるから自由になる。

スピリチュアルな世界でも、
断捨離や手放すと言う言葉が
流行ってますが脱げば脱ぐほど軽くなる。

肉体を持って生まれて生きると言うのは、
細い体がダルマさんになるぐらい
着込んできたようなことで、
服だけではなく、知識だけではなく、
感情やら執着やら、その他諸々の色んなモノを
知らず知らずの間に重ね着して来たような事です。

知識や経験を増やす事も
必要で役立つ事もありますが、
私達は、人間であって人間でない。
元々、一人一人が神としての存在であった。
それを思い出しさえすればいいと先に
目醒めたマスター達が伝えています。

手放すとは、何かを捨てるとか辞めること。
だけど、私達は、目醒める為や悟る為に
この逆をやってしまっている事がよくあります。

捨てれば捨てるほど
辞めれば辞めるほど
悟りへと近づく解脱。

ついつい何かを
やってしまいたくなるのが
人間の性なのですが、

悟りへの道も、ある意味、
諦めのような気持ちも
必要なのかもしれません。

諦めると言う事も、悪い意味ではなく、
明らかに究めるとか、諦観(明らかに見る)
と言う意味もあるようです。

私達は、何も知らない人の事を
馬鹿にしたりする傾向もありますが、
何も知らない人こそ悟りに近いのかもしれません。

勿論、色々、学んだりする事も
必要だし役立つ事だと思いますが
私が悟るとか。私が目醒める。

この「私が」を抜く必要があって
「私は」色々知っているし
「私は」色々経験して来たなどの
「私が」入っている間は、目醒めも覚醒も
悟りも訪れないと思うのです。

これが、スピリチュアルで
言われている所のワンネス。
あなたは、私で、私は、あなた。

分離は、あなたと私とを分けている。

人間には、顔があって体があります。
人を顔で誰々さんだと判別できますが、
すべての人の顔が同じだったら判別できません。

目醒めた人や悟った人は、
すべては、一つだったと体感するそうです。
しかし、その境地を言葉にする事は、難しく
言葉にした瞬間に、それでは、なくなる。

それらは、言葉を越えた所にあるので、
読み手、聞き手が、それをどう受け止めるか。

しかし、現実は、幻想世界だとも言いますが
その分離を楽しむ為に人間として
生まれ来た部分もあるのですね。

分離世界での事をやり尽くして
肩の力が抜けて、ふわ~とした時に、
目醒める人もいると思います。

現実世界。分離世界での事を
何もせずに悟りを得ようとか目醒めようとする事も
遠回りになる事もあるような気がします。

そこに至るまでの道は、
人それぞれ違うと思いますが、
目醒めた人や悟った人が凄くて
それに至っていない人が
ダメなわけでも劣っているわけでも、ない。

だから、あせる必要もないと私は、思います。
今世で、悟れなくても目醒められなくても、
それは、それでいいのではないかと思います。

悟りも目醒めも、そこで終わるわけではなく、
そこからがスタートだとも言います。

悟った人と悟ってない人では、
気づきの深さとか、そう言ったモノが違うだけで
それが起きようが起きまいが私達は、
今、この現実を生きているわけで
結論的には、悟ろうが目醒めようが、
どうでもいいと思います。
どうでもいいのですが、
その道を歩くと言う事に
意味があるのかもしれないと思います。

釈迦が悟りへと至った道

誰でも知っている話は、省略します。

釈迦も最初、自分の師を探そうとした。
そして師を見つけるのですが三人ぐらい代えた。
どの人の元でも自分の納得の行く答えは、得られなかった。

やがて一人で瞑想するようになり、
菩提樹の下で悟りを得たと言われています。

では、何を悟ったのでしょうか?

その一つは、現実世界の他に
実在界と言う目には見えない世界がある事に気づいた。

実在界と言うのは、エネルギーの世界。
想念帯もあれば、幽霊などの領域もあれば、
魂の領域などもある世界。

般若心経の色即是空で言われている
空の部分が、この実在界になるそうです。
(般若心経の般若は、仏の悟りと言う意味だそうです。)

色の世界が、目に見える、この現実界。

実在界にあるモノが形作られて、現実界に現れる。

そして、実在界こそが、本当の現実である事を悟った。

想念が物質化して現実界を創っている。

実在界の想念が現実になるので、
現実を変えるのは、実在界の想念。

実在界が空の世界。
現実界が色の世界。

現実を変えるのは、
色の世界ではなく、
空の世界の方。

空(実在界)の想念は、どこにある?
と言えば、心にあるそうです。

心の調和こそが現実をよくするコツ。

その心を調和する為に四諦・八正道などの教えがあります。

近年のスピリチュアルな話では、
心の調和の鍵は、感情だと言います。

近年のスピリチュアルも、
釈迦が伝えていた事を現代風に
分かりやすいようにしただけで、
心の調和の話も外側には、何も無いと言う話も
随分前に、釈迦が伝えていた事だったのですね。

しかし、釈迦は、
見えない世界の事ばかりを
話していたわけでは、ない。

どちらかと言えば、
現実的な話をされていた事が
多かったように思います。

やはり、見えない世界に偏るのは、
危険な部分もあると分かっていたのでしょう。

目に見える現実は、実在界の影響が99%以上。
それを分かっていながらも釈迦は、
見えない世界の事ばかりを
伝えていたわけでは、ない。

実在界に繋がる方法を教えるのではなく、
(それも教えていたかもしれませんが。。)
繋がれない人にどう伝えるか?と言った事を含め、
現実的に役立つ話をされていたと思います。

「金剛般若経」と言うモノに、
(私は、読んだ事がないです。)
「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観」
(いっさいのういのほう むげんほうようのごとし
つゆのごとくまたかみなりのごとく まさにかくのごときかんをなすべし)
と言う言葉があるそうですが、この意味は、

露のようにはかなく、電光のように
一瞬の間に消え去るの意で、
すべて因縁によって生じたものは、
実体がなく空であると言う意味だそうです。

一般的に伝える場合は、空(実在界の話)ではなく、
こちらの空の話の方が受け入れやすいと思います。

実在界へ繋がる瞑想については、
知花敏彦さんの本が、
お薦めなのですが、残念ながら
アマゾンでは、高額本になっています。

知花敏彦さんに学ぶ宇宙の法則

私も知花敏彦さんの本を読んだのは、
随分前で内容も薄っすらとしか覚えていないのですが、
知花さんの本を読みはじめた時に、
その辺にあるようなスピリチュアル本とは、
明らかに波動が違うと感じました。
機会がある方は、一度読まれてみるといいと思います。
(釈迦とは、関係のない内容です。)

人生100年。

人間の寿命は、たかだか100年程度。
100年も生きられない人の方が圧倒的に多い。

長生きが良くて短命が悪いわけでもない。

例え平均寿命が200歳になろうとも
宇宙的には、蝉のように儚い命だと思う。

人の一生も、宇宙の中の一瞬の出来事。

誰かが人間が何百年も生きられないのは、
長生きしてもカルマが溜まって行くからだと言いました。

稀にヒマラヤの仙人のような
カルマを超越した人が何百年も
生きているケースもあるようですが、
カルマを超越したから可能なのでしょう。

科学の力で不老不死の薬の開発を
している所もあると一部では言われていますが、
不老不死になった所でカルマを増やしてしまえば、
とても生き辛くなると思うし
科学や医療の力で、平均寿命を延ばした所で
多くの人のカルマを増やすだけかもしれません。

カルマについての余談ですが、
大木ゆきのさんが「宇宙の秘密」と言う本の中で
カルマは、神や宇宙が罰として与えるのではなく、
自分で自分がやった事の行いを人間として生まれ
自らが体験する事を志願する
と言うような事が書かれてありました。

だからカルマを来世に持ち越しせず、
今世で清算される事も幸せな事かもしれません。

「大木ゆきの」さん・・・

肉体を持つ意味

私達は、昨日の続きが
今日であると思い込んでいるのですが、
睡眠中に見る夢のように毎度変わるのが現実。

だからバシャールは、夢の方が
本当の現実に近いと言います。

本当の現実は、一瞬でガラリと変えられる。

そもそも肉体を持っている人間と言う存在は、
宇宙のあらゆる星々の中でも、
大変珍しい存在であるようです。

肉体に入ると言うのは、それほど不便な事でもある。
不便な事でもあるのですが肉体を持っている間しか
体験出来ない、あれやこれやの事がある。

人間として生まれて来たと言うのは、
それをやりに来たわけでもあるのですね。

そして、やり遂げた後に死んで行く。
死は、旅立ち。元いた世界に還って行く。

現代風に言えば、オンラインゲームで
ゲームをプレイして終了したようなこと。

本来であれば、どのような非業の死を遂げようとも
悲しむような事では、ないのかもしれませんが、
人間には、感情がありますから、
悲しみも怒りも大いに体験すればいいと思う。

あの世に還ると言いますが、
本来の世界に還った。そこからが
本当の人生のスタートかもしれません。

地球人生は、浦島太郎の玉手箱のようなモノで
気がついたら、えらい事、歳月が経っていたりもします。

あの世の方が故郷。ゆっくりできるかもしれないですね。

そうは言っても、人間として
体験して来たすべての出来事が
あの世に持って還れる宝物だと思います。
これが本当の玉手箱かもしれません。

今は、ヘミシンクなどを使って体外離脱が
出来る人も増えているようですが、
体外離脱故の危険もあるようなので、
素人は、あまりやらない方がいいとも言われています。

自分で霊体やらの調整が出来る人ならいいですが、
調整が出来ない人が体外離脱ばかりしていると
肉体以外の不調やズレが起きる事もあるそうです。

それによって肉体にも影響が及ぶ事もあるでしょう。

死んだ後に、いくらでも体験できるのですから、
肉体を持っている今、あせってやらなくてもいいと思います。

スピリチュアルで言われているサイキックな能力なども、
肉体を脱いだ後に、誰もが、いくらでも使える事かもしれず、
今、それらの能力が開花していないのであれば、
それらの事は、それらの人達に任せて、
肉体を持っている間にしか体験できない事をやるのが
人間として生まれて来た意味のような気がします。

そのようなお役目がある人なら、
肉体を持っている間に、何らかの導きがあって、
何処かでサイキックな能力が開花する事もあるでしょう。

アセンションや目醒めに関しても
それに固執するのではなくて、
それを目指しつつも、そうなれなくても
それは、それでいいと達観しているような状態が
実は、一番、それに近づく方法ではないか?と思います。

スポンサーリンク



-スピリチュアル, 仏教, 日記

Copyright© 思考の治療院 , 2020 All Rights Reserved Powered by STINGER.