京都には、西本願寺と、東本願寺があります。
何故、西と、東に分かれているのでしょうか?
色んな説は、あると思いますが、今回は、その中の、
一側面から見た話しを紹介したいと思います。
私は、歴史に全然、興味もないし詳しくもないので、
あまり役に立たない情報であるかもしれませんし、
間違った解釈かもしれませんが、
簡単な一側面からの見解である事をご了承ください。
事の八端は、織田信長であると言われています。
元々、本願寺は、今の大阪にあったそうで、
信長は、本願寺の勢力の拡大を恐れ、
その土地を明け渡すように要求したそうです。
しかし、その要求は、拒まれ、
石山本願寺合戦と呼ばれる戦いに発展。
その争いは、10年続いたと言われています。
そして、信長に明け渡す事になったそうですが、
まだ、そこで丸く収まったわけではないらしい。
本願寺は、顕如と教如と二つの勢力に分散して、対立していた。
信長の死後、天下を取った豊臣秀吉は、
本願寺を京都に移します。それが、顕如の西本願寺。
その後、徳川家康の時代となり、
教如が土地を与えてもらい、
本願寺を作った。それが、東本願寺。
その後も色々あったようですが、
それも、昔の話。歴史の話であります。
対立とか、因縁とか、それが100年続いたとか、
400年続いているとか言われたりもしていますが、
今は、違うのではないか?と私は、思っています。
西本願寺と、東本願寺に、
それぞれ、微妙な違いは、あるようですが、
それも、右手と左のような関係で、
合わせて合掌のような関係ではないか?と私は、思います。
浄土宗の開祖とも言われている親鸞さんも、
対立などは、望んでいなかった事でしょう。
話は、変わりますが、私、本願寺のお経で、
念仏和讃(ねんぶつわさん)と言うものがあるのですが、
あの音の響きが好きですね。
なむあみだんぶ~、なむあみだんぶ~、
なむあみだ~ん~ぶって言うやつです。
浄土宗の方で、家に、おっさまを呼ばれた事があるなら、
聞いた事があるかもしれません。ユーチューブで、
念仏和讃と検索されれば、その類の動画が、
幾つか出てくると思います。
また、京都の知恩院の近くに、
ほうたるるのいわやと言う場所があります。
目立たない小さな場所ですが、
親鸞さんと法然さんの、
出会いの場であったとの逸話があります。
親鸞さんが29歳で、法然さんが69歳の頃の話だそうで、
親鸞さんは、法然さんの弟子と言う関係だったのでしょうか?
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一念帰命の行
この場所も検索されると、
色んなブログなどで、
紹介されていたりします。
ユーチューブにも上がっていたと思います。
いずれにしても、信長や加賀一向一揆の
時代から振り返れば、今は、随分と平和で幸せで、
おめでたい時代になった事だと思います。
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